この本を書いたのは
「創造美育協会愛知支部」
となっていて
どうやら彼らは
悪い絵を描く子供たちを批判しているのではなく
むしろ子供の絵に良くない影響を与える
「血の通わない」美術教育、大人の姿勢、眼差しについて
指摘し、良くして行こうとしているようなのです
実はこの本はもうかなり古い本で
今では日本の美術教育の古典として
20年以上読み継がれている
とのことです
「煙突をのぼる人が、煙突に直角に倒して描いてあったり
道路が天に登り、走る車が倒立しているのは
明らかに『象徴主義』の”基底線表現”の特徴です。
それらは、作者の感情が自律しているしょうこであって
この子は個性的な表現様式を使って
対象のリアリティをとらえることができたのだと思われます。」
示唆に富んだ言葉や
本質にズバッと来るような考察・表現が多く
とにかくこの本からの引用だけでも
おなかいっぱい!笑 になるぐらい
自分たち大人が
気付かされること、学ばされることがかなりあります
以下、しばらく引用です
「<視覚型>すなわち観察する型の者は、
通常、外観から事物に接近する方法をとる。
<触覚型>は、自我によって自己の経験を投影するので、
その絵画的表現は非常に主観的である。
したがってその釣合いは価値の釣合いなのである。」《V・ローウェンフェルド》
「教師というものは、目にみえぬ精霊のように
子どもたちのまわりを徘徊するものだということを会得せねばならぬ。
そして、いつでも励ます用意を整えておかねばならぬ。」《F・ウイルソン》
「われわれが必要とするもの、それは熱中だ。」《E・ヴェルアーラン》
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さてここで、あるエピソードについて書かれています
ある小学校で、生徒に人気はあるけれど美術には自信がない
という先生がいて
美術の時間はとにかく生徒を自由にさせて
「なにを描いてもいいよ」といって
放りっぱなしだった、というのです
それについてある美術の先生に批判・指導を受け
いつものように授業をやった次の日に一念発起し
機嫌よく活発に生徒に話しかけ
「これはきれいだね」など真剣な気持ちで激励するなどしたところ
全生徒の絵がガラッと変わった
という話で
その時の両者の絵についての解説です
「Aの絵(前日に描いた絵)にくらべて、Bの絵(翌日描いた絵)の表現様式は
幼っぽくなっています。それはとりもなおさず、創造的雰囲気の中で
自分の表現をとりもどしたということでしょう。
この絵の場合もAの絵はただおとなっぽい描き方で
うすぎたないのが目だちます。
Bの絵は、幼児画のようでも、誠実で心のこもった美しい絵です(中略)
たいていの学級では、こうした創造性の復活を激励しないどころか
”へたな絵”だと見すごすのが実状ではないでしょうか。」
これも一見、
大人(教師)に教えられた(あるいは子供が真似た)技術により描かれた絵を
「薄汚い」というなど「悪い」と判断しているようですが
単純にそう言っているのではなく、
子供が自分の心に浮かんだ「描きたいもの」を表現できずに
表面上のテクニックで大人を喜ばそうとしてしまうこと
(それでごまかしてしまうこと)
また大人がそうさせようと導くことを「創造性のないもの」と
いっています
これは僕が前回のブログに書いた
「学年末試験」で学んだことと
全く同じです
そういう絵が
いかに「死んでいるか」は
実際にこの本に載っている絵を見てもらえれば
よくわかります
…と!
ふと気付けば偉そうなことを言っていますが
この本を読んでいると
「よい絵・よくない絵」とされる両者の違いが
だんだんわかるようになってくるんですよ
一言で言えば直感ですね
見た瞬間「え?(なんかちょっとひっかかるな)」と感じるか
「うわ~いいな~♪」と思うか
そう感じるのはほんの0.0何秒だったり、ごく弱い感覚だったりするので
次の瞬間にはたちまちそれを打ち消したり、こね回すような
「理屈」が浮かんできます
そうはいってもこれはその子の個性だとか
この明るい色が僕にそう感じさせてるのでは?とか…
でも解説を読むと
やはりそれが滲み出しているのがわかります
そしてそういう見方は
繰り返すことで身に付いてくるというのもわかります
つまり子供の絵をちゃんと見るというのは
自分を正していくことにもつながる
そんな気がします
「自由画教育に教師たる資格は
美術界の知識に富んでいる事でも
水彩画が描けることでもない
唯生徒の創造を愛する心
それがあればよいのである」《山本鼎》
つづく