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2010年09月 アーカイブ

2010年09月13日

Wikipedia の「ホメオパシー」項目について

Wikipedia というWeb上の「百科事典」を利用される方は、
数多いと思います。
私もその一人です。
理由は、「便利で無料」だから。
それに尽きます。

通常の百科事典は、
その道の専門家、権威ある専門家が、
自分の名誉をかけて、
その内容について、
極めて周到かつ公平に執筆します。
その代表の一つが、「平凡社百科事典」です。

しかし、このWikipedia は、
成り立ちがまったく異なります。
権威ある専門家ではなく、
匿名の投書の「寄せ集め」です。
何と言っても無料ですから。

まったくの素人でも、
何らかの文献を引用しさえすれば、
それがどのような偏った文献であっても、
それをどのように曲解しようとも、
根拠として挙げることができ、
極めて不正確な記述をすることも充分可能です。

しかし、実際には匿名ではあっても、
それなりの「専門家」が記述していることが多く、
記述の仕方も、冷静なものが多いと思います。

ですので、今まで信憑性に一抹の不安を抱きながらも、
それなりに使用することも多くありました。


ホメオパシーについての記述は、
今年の前半までの記述は、
不正確ではありますが、
まだ「まし」でした。
明らかに専門家ではない方の記述ではありましたが
過激で見過ごせないほどの批判ではなかったので、
そのままにしておきました。


しかし、最近の記述はいかがでしょうか?
控えめに言って、でたらめです。
ホメオパシーに悪意を持つ方々が談合し、
ホメオパシーを徹底的に貶めようとしています。
記述の少なくとも半分以上の文章は、
嘲笑的な悪意に基づいていて、極めて不正確です。

書いた方が、ホメオパシーの専門的訓練を受けたことがない、
まったくの素人であることは、
最初から明らかです。
一つ一つが何の根拠もない記述です。


まず、最初にこうあります。

ホメオパシー (Homeopathy, Homoeopathy, Homœopathy) とは、「極度に稀釈した成分を投与することによって体の自然治癒力を引き出す」という思想に基づいて、病気の治癒をめざす行為もしくは思想を指す。その行為者はホメオパスと呼ばれる。


ホメオパシーの原典である、「オルガノン」を読んだ形跡が全くありません。
ホメオパシーについて書くのに、
ホメオパシーの基本文献すら読まないのでしょうか?
ホメオパシーは、「思想」に基づいているものではありません。
プルービングと臨床という実証からのみ成り立っています。
その精神は、オルガノン第一章にまず明らかです。


§1
医師の唯一にして最高の使命は、
病める人の健康を回復させることである。
それが「治療」というものである(注)。

(注)しかしながら、医師本来の使命は、
体内で起きている目に見えない生命の営みと
病気の発生という内的な本性について、
いたずらに空想したり仮説をいわゆる学説へと
作り上げたりすることではない。

また、病気の現象や、その背後に必ずや隠されているに違いない
直接的な原因を説明しようと際限なく試みることでもない。
そうした説明は、無学な人たちを驚かせるために、
無意味な言葉や誇張された抽象的な表現で
覆われているからである。
それはいかにも学があるように聞こえるだろう。
どれほど多くの医師たちが、
こういうことに時間と労力を無駄にしてきたことか。
一方で、病める人々が心から助けを求めても何もしない。
このように知識に溺れた空理空論(これを理論医学と呼び、
専用の大学教授の椅子まで用意されている)はもう結構。
みずからを医師と呼ぶ者は、
苦しんでいる人々を無駄話で煙に巻くことをきっぱりやめ、
今こそまさに、真の医療を開始し行動を起こすときである。
すなわち、病める人を本当に助け、治療するときなのである。


この精神は、オルガノン全291章を貫いています。
ホメオパシーの精神は、「思想」ではなく、
徹底的な実証にあり、徹底的な実践にあります。
机上の空論は、何一つありません。


また、「自然治癒力を引き出す」という記述がされています。
オルガノンを読めば、そのようなことは一つも書いてないどころか、
「自然の模倣ほど馬鹿馬鹿しいものはない」
という基本理念が全章を貫いています。
ホメオパシーには、
「自然に任せる」という思想は、何一つないのです。


慢性的な内的病気で生命が脅かされた場合も同様で、
自然にまかせておくと、
生命に不可欠な部位から
それほど重要でない組織へと危険をそらす、
つまり転移させるという方法しか自分を助けるすべを知らない。
生命エネルギーはエネルギー的な存在であって、
思考も予見もできず、知性を欠いているので、
生命エネルギーがおこなっていることは、
真の助けにもならず、真の治療にもならない。 

オルガノン序文第5節 治療法に対する批判 ── 自然の模倣


そもそもすべてを自然に任せれば良いならば、
医学、医療は必要でしょうか?
もし、「自然が一番!」だったら、
どんな病気をしても、どんな怪我をしても、
全て放置して、自然に任せたら良いではありませんか!
ホメオパシーには(少なくとも本来のホメオパシーには)、
そんな馬鹿馬鹿しい主張は何一つありません。
その正反対なのです。


また、中には私の記述もありますが、
ひどい記述です。、
帯津先生についての記述も、
信じられないような記述です。

こんなどうでも良い、下らないことに言及するのも、
馬鹿馬鹿しい話ですが、
馬鹿馬鹿しさついでに書いておきます。

日本ホメオパシー振興会の永松昌泰は由井寅子の元共同経営者であり、 [52]この両人はしばしばホメオパシー講座でもカルマ論に言及している。 [53]日本ホメオパシー医学会理事長の帯津良一は 気功治療(道教)の研究者であったが、 1990年ごろからシュタイナーに傾倒し、ホメオパシーを始めている。[54]

Wikipediaより


私は「森羅万象セミナー」という、
「狭義のホメオパシー」ではないセミナーを行いました。
そのシリーズの中で唯識の話をした時、
その文献の中で出てくる普通の用語として
カルマ(業)の話をしました。
それ以外でしたことは記憶がありませんが、
「しばしばホメオパシー講座でもカルマ論に言及している」
とは、どのような根拠に基づいているのでしょうか?

そんなことはどうでも良いようなことですが、
このような記述が平気でなされて放置されるのが、
はたして「百科事典」なのでしょうか?


そして、このようなデタラメで誤った記述が、
現在「凍結・保護」されているそうです。
そして、誤った記述が、日々多くの方の目に触れています。

このWikipediaの記述に関して、
真実の記述が成されるように、全ての根拠を明らかにして、
徹底的にやり直すことが必要です。
今まで専門家である私たちが、
手を入れずに放置していたことが、
いけなかったのでしょう。
ある意味、このような状態は、
私どもの落ち度なのでしょう。

幸い、記述は公正な記述に変えることが可能なようです。
オープンな議論が可能なようですので、
これからは、きちんと根拠に基づいた議論を重ねて
誰から見ても公平な記述になるように
していきたいと思います。

幸い、私の学校のカリキュラムでは、
ホメオパシーの賛否両論について、
徹底的に議論しDebateしています。
ホメオパシー反対側の議論について、
反対側の方たちよりも、
徹底して学ぶようにしています。

Wikipediaの記述について、
賛成、反対の両論を公平に掲載できるよう、
生徒、卒業生の皆さんに、
お願いしたいと思います。


つづく

2010年09月14日

日本のホメオパシーはどうあるべきか

しばらくでした。

この間、いろいろなことを考えて、
これからの日本のホメオパシーはどうあるべきか、を
ずっと沈思黙考しておりました。

もちろんその間に
スタッフブログや生徒ブログにありますように、
感動的な卒業式もありました。

すばらしい卒業式でした・・・
それについても、また書きましょう。


「本来のホメオパシーとは何か」
ということについても、引き続き作業をしています。

その作業途中で、
現在本当に必要なのは、
単に「本来のホメオパシーとは何か」を明らかにするだけではない。

むしろ「これからの日本のホメオパシーはどうあるべきか」
それを総合的に再建していくことが最も必要なことである、
と考えるに至りました。

そのためには、
まず、「本来のホメオパシーとは何か」を明らかにし、
そして、「現代医学との関係はどうあるべきか」
「セルフケアはどうあるべきか」
などを明らかにし、
これからのホメオパシーの道筋をつけていかなければならない、
と強く思います。


近々、発表します。


つづく

2010年09月15日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (1)

ホメオパシーの科学性について、
7月19日に大阪で行われましたセミナーを、
一部掲載いたします。

この日のセミナーは、
4部構成になっていて、
第一部(1時間)  これから掲載する私の話(一時間)
第二部(2時間半) 松本丈二先生のお話
第三部(1時間半) 松本先生と私の対談(現在、HP上に掲載しています)
第四部(1時間) 松本丈二先生のお話

です。


***************************************


おはようございます。


「ホメオパシーと科学性」というテーマでお話しするのは、
今日が2回目ということになります。
1回目は、4月のセミナーでした。
社会人基礎力というテーマを皮切りにして、
科学というテーマについても
さまざまなお話をさせていただきました。


「科学性」ということを考えるにあたりましては、
大きくは二つの方面から考えなければなりません。

ひとつは現在通常行われているところの
コンベンショナルな方法、そこに特に批判を加えずに、
それをそのまま鵜呑みにして
その路線で一応やってみるという、
それがひとつです。

それから、もうひとつは、
その手法そのものをもう一度よく考え直す、
それが果たしてその事象に対して
本当にふさわしいやり方なのかどうかということを検討し直す。
科学には、この二つのアプローチが必要であるわけです。


4月のセミナーの時に、ある論文を引用いたしました。
二つの論文です。
「ホメオパシーが医学の主流に組み入れられるべきである」
というテーマに対して、
賛成と反対の正反対の立場の論文です。
その時に使った論文は、
それなりの方が書いていたはずですが、
レベルとしては、残念なものでした。

ホメオパシー反対派の論文は、
スタンフォードの医学部の教授で、
この分野に対して、
それなりの知見があるとされている人ではありましたが、
残念ながら、その論文は、あまりにも粗雑で感情的で、
ホメオパシー反対の論文としては非常に幼稚なものでありました。
そういう幼稚な論文を相手にして、
この論文はおかしいと言ってみても、
あまり仕方がありません。
ただ、ほとんどのホメオパシー反対論は、
大体そのレベルのものがほとんどで、
その論文のレベル以上のものではありませんが、
相手としてはあまりにも残念だということが、
正直なところありました。


その後、もう少し「まし」なものはないのかな、
と思っていたわけですが、
ある生徒さんから
「代替療法(医療)のトリック」という本があって、
これに衝撃を受けている生徒もいるという話を
お聞きいたしました。
「代替療法(医療)のトリック」ですね。
こういうふうな本です。英語の原著はこういう本です。
翻訳は、割と正確な訳です。


今は、時間が1時間しかありませんので、
この「代替療法(医療)のトリック」について、
直接的なお話はできませんが、
この半年以内には、1日かけまして、
「代替療法(医療)のトリック」という本を徹底的に
精読、精査するという会をやりたいと思います。
(11月28日に行いますので、ぜひお申し込み下さい)
http://nihon-homeopathy.net/semi-info/semi-tokyo2010_11_28.htm


今日は、最初の1時間の中で、
ある話をじっくり聞いていただきたいと思っております。
小林秀雄さんの話です。
文芸評論家で非常に有名な方です。
この方は、対象にどのようにして近づいていけばいいのか、
自分の全存在をかけて、一生考え続けた人です。
対象に近づいていくにはどうしていけばいいのか。
それが、小林秀雄さんの一生のテーマです。

小林秀雄は評論、批評をされている方です。
評論というのは、例えば小説なり、何かがあって、
その小説に近づいていくわけです。
近づかないで、ただああでもない、
こうでもないということを論じても何も意味がありません。
いかにしてその物事にありのままに近づいていくのか
ということをずっと考え抜いていた人です。
そして、この方は余り講演されない方なのですけれども、
講演の中で非常に重要なことをお話になっていらっしゃいます。
このことを、まず今日の最初の皮切りにしたいと思います。


つづく

2010年09月16日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (2)

今日は、せっかく松本丈二先生に
いらっしゃっていただいておりますので、
今日はできるだけ松本丈二先生のお話を
メインにしていきたいと思っておりますけれども、
まず最初はですね、
小林秀雄の話から入ろうと思います。
そして、この話が、松本丈二先生のお話と、
きっと密接に絡み合ってくると思います。


ただ、実はこれはとても深い話、とても「高級な」難しい話です。
簡単な話ではなくて、表面的な話ではありません。
表面的な話というのはね、
いわゆる、狭い意味での「科学的方法」、
通常行われているところの「科学的方法」というのは、
誰でも簡単に分かるようなことなのです。

再現性がどうだとか、
METANALYSISがどうだとかという事っていうのは、
その概念を一度ちょっと一応簡単なことを理解すると、
わりと簡単に分かる話なのですが、
これからお聞きいただく小林秀雄の話というのは、
ある意味シンプルな話なのですけども、
実は非常に難しい話です。
ほとんどの皆さんは、
実際にはその本当の意味は最初からは理解できないと思います。
簡単そうで、非常に難しい話です。


朝の一時間、これをやるかどうか、随分と考えましたが、
非常に重要な話であり、
本当の意味の科学とは何か、
について思考する試金石になる話ですので、
朝はあまり多岐にわたらずに、
このお話に絞っていきたいと思います。


科学の本質、本来の科学とはいったい何であるのか
というところ考えていきたいと思うんです。
当然ながら、科学というものは、起こっている事象、
起こっているものに対して、
いかにしてありのまま近づいていけるかということ、
科学はこれに始まりこれに終わるわけです。


実は、余談に過ぎないつまらないことなんですけども、
この「代替療法(医療)のトリック」の
一番最初のところに既に引っかかりました。
何が引っかかったと言いますとね、
この本を貫いている精神について書いています。
その精神とは何かというと、引用されています。

「医学の父として知られているヒポクラテスはこう述べた。 科学と意見という、二つのものがある。 前者は知識、つまり科学は知識を生み、意見は無知を生む。」


これがこの本の精神だそうです。
このヒポクラテスのこの警句を指針として、
今日急速に人気の高まっている、
多種多様な代替医療に
科学の目を向けていくということだと宣言しています。


しかし、ここに既にトリックがあります。
今の科学は、ごく最近の、ここ数百年の産物に過ぎません。
確かに、今の科学にあたる、
SCIENCEという言葉の語源となる言葉は、
これは昔からあったんです。
しかしそれは、
今日でいう「科学」を意味したわけでは全くなくて、
昔は単なる知識ということを意味したわけなんですね。

ですから、「科学は知識を生み」ではなくて、
「単なる意見ではない知識は真の知識を生む」
という意味です。

まず、そのことを御存知ない。
正に知識の欠如から来る「無知」を露呈しています。

または、それを知っていて、
それをトリックとしてわざと使ったのか分かりませんけども、
まさに、最初の文言からして、トリックなんです。
科学、あたかも現代で言う科学が、
昔からそのままの形であったかのような、
そして、その科学という言葉が
現代のような意味で使われていたかのような、
まあそういう錯覚、トリックを与えています。
それは、今度精読する時にきちんとお話します。まあ、つまんない話ではありますが・・・


ではですね、
小林秀雄さんのお話しを聞いていただきたいと思います。


昔の録音でありますし、
ちょっと聞きづらいところがあったりいたします。
最初の紹介のところは時間がもったいないのでカットして、
肝心なところから話します。

最初にあのユリゲラーの話が出てきます。
これは随分前の講演です。


つづく

2010年09月17日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (3)

(小林秀雄氏の講演をCDからテープ起こししています)
(不要な接頭語や接尾語などはカットしています)


『この間、あのユリゲラーっていう青年が、
念力の実験ってのをやりまして、
大騒ぎになったことありますね。
あれ僕、面白かったんですよ。
そんなことから話そうと思って。

実は私の友達に今日出海っていう男がいて、
このお父つぁんいうのがね、
もう今亡くなったけども、
日本の一番まず古い船長さんだね、日本郵船の。
それで、船ばっかり乗ってたんだけども、
それがあの、船長辞めてからね、
心霊学というものに凝っちゃった。
それで、クリシュナムルティーって
有名な神秘家がいますよ、
インドにね。ずっと昔その人の会員になりましてね。
それは非常に有名な人だったわけ。


だから、僕はああいうことは昔から知ってんです。
学生の頃からね。
それで、今度そのユリゲラーってのが、
いろんなその念力っていうもの、
いろんなことをやるっていうんでね。
それで、テレビ見てたんですよ。
そんなもの面白かったからね。


僕はゴルフをやってんです。
毎週、今君なんかと行くんですがね。
ある時、今君と、あと二人、
漫画家の那須良輔ってのと、
もう一人男と、4人でゴルフに行ったんですよ。

そしたらね、
何も僕はそのテレビがあるなんてこと知らなかったんですよ。
そしたら茶店のお祖母さんがね、
今の顔を見てね、
あの私んとこ、時計が動きました、
こう言うんだね。
何のことやら僕は分からない。

だが、それはね、今も知らなかったんだけどもね、
あの今の兄貴の今東光というのがいるね。
あの今東光という男がね、
そのユリゲラーの時計を動かす実験に立会人に出てたんだよ。

だから、そのお祖母さんはだね、
そのテレビを見てて、
自分で時計、壊れた時計を持って、
動けーって念じていたんだね。
そしたら動いたんだ。
そん時に今東光はそばにいたから、
今東光の弟ってことでよく知ってますからね、
今の顔を見たらあの、今は知らないけども、
私の時計動きましたよって、こう声かけたんだよ。
それからいろいろ話聞いたの。
そしたらねえ、
あの、いろんな人が動いた、動いたって言うんだね。

それで面白くなってね。
今君の家にね、その次にテレビに出る時にね、
みんなで集まったんだよ。
面白いからみんなやってみようじゃないか(笑)。


そしたら、あのねえ、
うーん、その日は僕と今君と、
やっぱり同じメンバーだったな。4人でね。
で、今度はあの、時計が動くだけじゃなくて、
スプーンを曲げるなんていうことも
やるんだって言うんだね。

それでテレビで6時半に、
そのユリゲラーっていうのは、
なんかそのカナダかなんかにいるんだよ。
それで、6時半になるとね、私は念力をかけるから、
諸君、壊れた時計を握ってくれ。
6時半になったらじゃあ念じるから、
諸君もその私と一緒に念じてくれと。
時計よ動け。それからあの、スプーンを曲がれ。
念じてくれと。


で、ちょうど6時半になったんだよ。
で、今君のとこ、
俺んとこにどっか壊れた時計あるだろう、
そして奥さん探してきたら、
2つあったんだよ。
そして、昔壊れて、ほったらかした時計、
私それひとつ持ってた。
それから、那須君もまたひとつ持ってた。
それから今君のね、あの一番下の娘さんがね、
結婚して、子どももあるんですけれども、
これがその、スプーンを持ってた。
それで6時半になったからね、
動けーって言ったんだよ。
そしたら僕の時計は動いたんだよ。
それから那須君の時計も動いちゃったんだよ。
それからねえ、その、うーん、
今さんのその、末の娘さんね、
娘さんがキャーッと言ったらね、
あの曲がっちゃったんだよ(笑)、
あの、あれが、スプーンが。
それでね、まあね、
私は面白いなあと思っていたの。


つづく

2010年09月18日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (4)

小林秀雄の講演続き
********************************

そしたら、しばらく経ったら、
このスプーンはインチキでね、
こんとこで巻いちゃうんだ、
手品だってことに出たでしょ。
それは手品でもなんでもない、
妹さんのがギュッと曲がったの見てましたからね。
これは手品でもなんでもないんだよ。
曲がったんだよ。
それはね、確かなんだよ。


だからつまらないことだよね、
そんなことは。
私はそういうことよくもう昔知ってるしね。

それは私のちょうど高等学校の頃だな。
随分ああいうものがはやりました。
それで、今さんのおっとっあんなんか、
もうよく知っててね。
ああいう念力ってものはねえ、
すぐだめになっちゃうんですよ。
あのユリゲラーのなんか、
あんな商売してりゃ、
もうすぐだめになるんだ、ああゆうの。
あの鈍っちゃうんだね。
だから子どもにはそういう念力があるんだけども、
やっぱりそんなにあの、
いつまでもできるもんじゃないんですよ。


そういうことはもう分かっていることなの。
昔から分かってることなんだよ。
で、そんなのスプーンが曲がるとかなんとか、
そういうものに、まあ、あの手品だとか、
やれ子どもも、ああいうことをして儲けようとかね、
いろんな人が出て、まあ大騒ぎになって。


私、注意してね、
その頃の新聞や雑誌をこう見てたんだよ。
世間じゃこういうものを
どういうふうにその言うのかってね。


実にまあ浅薄なんだね。
ほんとに浅薄ですよ。
あのね、批評がね。

僕はそんなスプーンが曲がるとか、
やれ念力がどうの、
箱の中の物が当たるとか千里眼とかね、
そんなものよりもだね、
驚くべきことは、まあ世間にいっぱいあるんで、
そういうこのことに対する、
今のその知識人の、インテリゲンツィアの態度だね。
実にだめですね。

ああいうもの一体どういうふうに受け取ったらいいのか。
僕たち教養のある、
君らだってそうだろう。
知識人がだね、ああいう不思議なこと、
つまり念力っていうのはね、
念力岩をも通すって言うだろう。
念力岩をも通すって言う意味はね、
なんでも自分で一所懸命やったらば成功するっていう、
そういう「喩え」ですよ。
だけど、念力っていうものは、
岩を本当に通すかもしれんじゃないか。
そういうことをどういうふうに考えてるの、
諸君は。


そういうふうな態度だね。
ああいう不思議っていうものに対する態度。
その態度が実に曖昧でね。
嘲笑的態度を取るか、
それとも面白いなっていう、
面白がる、
なんかスポーツでも見るような態度を取るか、
どっちかでしょう。

で、真面目に考えないですね、
ああいうことを。
それが僕は気に食わないんですよ。

一人ぐらいはだな、
ああいう不思議なことがあった場合に、
今の知識人って者は、
どういう態度でああいう不思議なもの、
念力っていうなものに態度を取るのが正しいか
ということを考えるやつはいないんだね。


今本当にそういうことじゃ堕落してます。
今みんなおしゃべりばっかりいるけども、
ちょっとしたそういうふうなことに対するね、
正しい態度っていうものが、ないんだね。』

引用ここまで


つづく

2010年09月19日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (5)

さて、まずこれが一番最初のところなのですが、
ここに非常に重要なメッセージが既に入っています。

今ここでは、たまたまユリゲラーの話でしたが、
今現在自分が持っているところの知識では
なかなか理解ができないこと、
それを不思議と呼んでいますが、
「不思議」というのは今現在の自分の知識や、
いわゆる世間的な知識では、
今のところそれを理解することができないものを指すだけであって、
それ以上でもそれ以下でもありません。

それに対してどういう態度をとるのが正しいのか、
ということが、どうにも浅薄でどうしようもない、
世間一般だけではなく、
インテリゲンツィアと呼ばれる知識人の態度は、
どうしようもなく堕落している、ということなんです。


その態度は、二つの態度に大別される、というわけです。

一つは、嘲笑的な態度を頭からとる嘲笑的な態度。
殆どのいわゆる知識人と呼ばれる人は、
頭から嘲笑的なんです。
「そんなことがあるわけがないでしょ! 
この科学が発達した世の中に
そんなことあるわけがない。
この世に不思議なことは一つもない。
全てが説明可能である。
不思議そうに見えることは、
実際には何かのトリックであるか手品である。
必ず何らかトリックがあるのに間違いない。
私には分かる!」そういう浅薄さです。

例えばこんな話が月刊誌に載っていました。
ある科学者なのですが、
こんなことを得意気に書いていました。
「私はユリゲラーのトリックを世界でただ一人知っている。
世間の人は、こんなことをなぜ分からないんだろう。
でも私の目は誤魔化せない。
時計が故障する原因の多くは、
油切れである。時計が動いたのは、
手で持って温めていたから、
油が一時的に温まって動いただけである。
それを、うまく演出しているだけだ。
私には分かっている。
これで彼のトリックを全て説明ができる。」

こういう極めて浅薄な考えなんですね。


その他は、
スポーツ観戦でもするような感じで、
ただ面白がる。真面目には考えない。
実際に起こっている現象に対して、
かすり傷ひとつ負わせていなくて、
自己満足をしてしまっているだけです。


さて、今からのところが今日のメインの話です。
ベルグソンの話が出てきます。
そしてその後に科学の話が、出てくるのですが、
時間の関係から
小林秀雄の科学論を聞いていただくのは
残念ながら割愛して、
私が少しお話をします。


それでは、ベルグソンの話を聞いていただきます。


つづく

2010年09月20日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (6)

ここから再び小林秀雄氏の講演

********************************


『僕は昔、そういうことが流行った頃、
私は大学まだ入らなかった。大学入ってたかな。
うん、入った直後くらい。その時にベルグソンのね、
そういう念力に関する本を読んだことがあるんですよ。
それで、ああなるほどと思ったことがあります。

それ僕は今度、
諸君に何のお話をしようかなって思っていたらね、
そんなこと僕ちょっと考えたもんでね。
この間また読み返して見たの。

その本はね、1913年に出た本ですよ。
13年に行ったベルグソンの講演です。

ま、諸君はあんまり読んでおられないだろうと思うからね。
念力というものに対して、
ベルグソンはどういう態度を取ったかということをお話します。

これはもう随分前の、1913年の講演ですから、
そのころロンドンにね、心霊学協会というものがあったんです。
念力というものについて、学者たちが寄っていろいろ考えた。
その時に、ベルグソンが、その心霊学協会に呼ばれたんです。
呼ばれてロンドンで講演したんです。
その講演の手記なんですよね。

それで、読みだしてみると、
もうちっとも、今日でも変わらないで大丈夫な意見だね。
やっぱり、ああいう人は偉い人です。
それをまあ大体のところをお話しましょう。


それはねえ、あの、こういう話なんだ。

この前の戦争の時です、
夫が、どこだったか、まあ、遠い戦場でね、死ぬんです。
戦死するんです。

するとその奥さんがね、夫人がパリにいて、
ちょうどその死んだ時に夫が塹壕で倒れたところを見るんです。
幻に、夢に見るんです。
それで、夫が死んだことを知るんです。
あ、今死んだ、と。

それで後でよく調べてみると、
そのちょうどその時刻に、
夫は、その夫人が見たとおりの格好で、
そばに数人の同僚の兵士がいてすぐ介抱したんだけど、
死んじゃった。
その数人の兵士にも、後で会うんです。
すると、夫人が幻で見たのと同じ光景だったんです。
同じ光景をだね、その婦人は見たんです。

何の会議だか知らないが、ある大きな会議に出席していた時に、
話が、そういう精神感応、テレパシーだよ、
その話になった時に、あるフランスのね、
名のある学者が、立派な学者が、これ医者なんですけども、
そういう話をしたんだね、
ある人が。

するとね、
その医者はこう答えたって言うんです。

「確かにね、
私はその話を信ずる、と。
その話した婦人は、立派な人格の持ち主で、
嘘なんか決して言わない人だし、信じます、と。

だけど、困ったことがひとつある。
というのは、昔から夫でも、
自分の身内でも、子どもでも、
死んだ場合に、死んだ知らせというものは実に数限りなく多いんだ。
諸君だってそんなことあるでしょ。

私もあります。そういう経験を持ってます。
そういう経験は非常に多いんです。
だから、それはみんな嘘じゃないだろう。

だけど、困ったことはだね、
間違った経験が非常に多いってことです。
例えば、私は、自分のかみさんが死んだ夢を見るでしょ。
でも、かみさん生きてるわね。しょうがないじゃない(笑)。
子どもが死んだ夢を見る。
やっぱり子どもはぴんぴんしてる。
そういうふうに無数にもまた、正しくない幻があるでしょ。

じゃあ、どうして正しくない幻の方をほっといて、
正しい幻の方だけを気をつけるのか。

確かに私が子どもが死んだって夢を見た、
確かに子どもがその時に死んだというふうに、
正しい幻の方だけを気をつけるのか。
それが困るんです。
私はその婦人の話を信じたいと。
人格も信じたいと。
嘘をついてないってことを信じたいと。
おそらくそうだろう。
だけども、そういうたくさんのもうひとつの間違いがあるじゃないかと。

人間はいろんな夢を見ます。
それでみんなその夢は、正しくないんです。
間違いなんです。現実に照らし合わせてみればね
。どうしてその間違いの方は、ほっとくんです。
たまたま偶然に当たった方だけを、
どうして諸君は取り上げなけりゃならないか。」


こう答えたんだそうです、その医者はね。


つづく

2010年09月21日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (7)

小林秀雄 CDからテープ起こし引用つづく

********************************


それで、ベルグソンはそれを聞いてた、横で。
そしたらそこに、一人若い女の人がいてね、
その医者に
「先生、先生のおっしゃることは、
私にはどうしても間違っていると思います。
先生のおっしゃることは、
非常に論理的に正しいけども、
私は何か先生は間違ってると思います。」と、
こう言ったって言うんです。

その時にベルグソンが、
あのやっぱりそばで聞いてましてね、
私はその娘さんのほうが正しいと思ったって言うんです。


これはどういうことか、
講演でこういう説明をしてるんです。
学者というものはね、
どのくらい深く自分の学問の方法
っていうものに囚われているかっていうことなんです。

それはもう驚くべきほど学者っていうものは、
一流の学者なほど、立派な学者であるほどだね、
自分の方法ってもの、固く信じている。

で、知らず知らずのうちに、その方法の中に入って、
方法の虜になっているもんだ、と。

だから、具体的ないろいろな現象がね、
具体性ってもの、そういうものに目をつぶってしまうんだ。

今の場合でもよく考えてみたまえ。
その医者はねえ、
そういう、ある夫が戦死した夢を見た、
という話をだね、
そういう話を聞くと、
その話を次のように変えてしまう。

その話は、正しいか、正しくないか、と。
その婦人が、夫が死んだって夢を見た時に、
確かに現実に夫は死んだか、
それとも間違いで、夫は生きてたかって、
そういう問題にしてしまうっていうんです。

これは違う。その婦人はね、
問題を話したんじゃないんです。
その婦人は自分の経験を話したんです。

間違い、間違いじゃないっていう、
そういう問題はないんです。

これは本当であるか、嘘であるかという問題はないんです。
婦人にとってはないんです。

婦人はただ、ある日寝ていると、
まざまざと夫が倒れる様子を見たんです。
そこで、数人の兵士がそれを取りまいてる様子を見て、
その顔まで覚えてるんです。
あんまりこれは生々しい光景であるから、
それを人に語ったんです。
ありのままを人に語ったんです。
そういうことは、その夫人に起こったたった一つの経験です。

経験的事実だね。それを主観的だって言うんです。
そんな馬鹿なことはないじゃないか。

人間っていうものは、
経験する場合に主観的であるか
客観的であるかなんてことは、
そんなことを考えるような経験は
ちっとも切実な経験ではないんです。

切実な経験というのはみんなそうです。
これは自分の夢の中の経験であるか、
あるいは本当に客観的なものであるななんてこと、
考えてないですね。

ほんとに切実な経験ってのは、
主観的でも客観的でもないんですね。
直の経験だよね。
それは、こうつねられ痛いっていう経験とおんなじです。

痛いっていうのは主観的なことか、
客観的なことか。
どっちでもないじゃないか。
本当に直接には僕の心の中の経験じゃないか。
それとおんなじですわね。

だから、その婦人はだね、
確かに夫が倒れたっていうことを見たんですよ。
その確かに見た、その生々しい話を、
確かに夫は倒れたか倒れなかったか
という問題にすり替えてしまう。

もしもすり替えればだよ、
倒れた場合の数と、
間違った場合の数とを比較しなきゃならんじゃないか。
そうすりゃ間違った場合の方が無限に多いでしょう。
当たる方は本当に少ないでしょう。

そんなら、それはただの偶然じゃないか、
こういうような結論が出るじゃないか。
なぜそれが偶然だっていう結論が出るかっていうと、
婦人の話をそっくりそのまま、
婦人の経験ってものを、
具体性ってものを信じないで、
果たして夫は死んだか死なないかっていう
抽象的問題に置き換えるから、
そういう結果が起こるんだ、とこう言う。


これ諸君まだ、なかなかこれは分からないかもしれない、
こんな話では。
これは非常に大きな哲学がありますからね、
その底に、ベルグソンの。』

小林秀雄の引用終わり


つづく

2010年09月22日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (8)

ベルグソンの話は、ここまでです。

私はずいぶん前に本でこれを最初に読みましたが、
実はそのときものすごく衝撃を受けました。
なぜかと申しますと、
実は私もまさにこの医者と
同じような考えをしていたのです。

言ってみれば、
いわゆる悪しき「科学教」に
毒されておりましてね。
この医者とまったく同じような考えをしていて、
一人悦に入っていたんです。


今の小林秀雄さんのお話し、
わかりましたか? 

あるご夫人が、
夫が戦死した光景の鮮やかな夢というか、
幻を見たわけです。
そして、その後で、
まさに幻に見た通りの状況で
夫が亡くなったことを知って、
それを誰かにお話ししたと、
そういうことですね。

そして、その医者というか、科学者は
すぐにこう反応するわけです。
「その御夫人が話したこととは、
きっとその通りなんでしょう。
でもね、ちょっと困ってしまうんですよ。
確かにね、正夢というか、
幻が当たることもあるでしょう。

でも世間では、正夢とか
当たった夢や幻だけを問題にして、
なぜ当たってないことは問題にしないのでしょうか?
実際には当たってない夢や幻は、
たくさんあるでしょう!
当たってないほうがずっとずっと多い。
なぜそっちを問題にしないんでしょうか。
それはおかしいでしょう」ってね。
そういう視点ですよね。


私も物理、数学、論理学を学び、
またディベートに出会って、
一つの現象に対して
あらゆる可能性を考える、
論理的思考を非常に厳しく訓練されました。

一つのこういう主張を誰かが申し立てたとしよう。
しかし、こういう可能性もあり、
こういう可能性もある。
とにかくあらゆる可能性があり得る。
だから、どのような主張も鵜呑みにはできない。
そういう考え方の訓練というものを
ずっと受けておりました。


もちろん、
それも確かに必要な考えではあるんです。

たとえば人はいろんな噂話をしますし、
聞きますね。
人というのは、
自分が好きな人の悪口を言われたときには、
「いや、それは違うだろう」と思うし、
自分が嫌いな人の悪口を聞いたときには、
「やっぱりそうか」って思う。
まあ、そんなもんですよね。

人間というものには、
バイアスというか、
偏りが非常に生じやすいです。
そういう偏りが、
何らか生じているんじゃないかということを考えることは、
やはり必要なことではあるのです。

また、物事というのは、
たとえそれが起こっているように見えたとしても、
必ずしも自分に見えたように
実際に物事が起こっているとは限りません。

NHKスペシャル「錯覚」の番組にもあったように、
我々が見ていると感じているものは、
実は本当の意味で直接見ているわけではなくて、
結局は我々が頭の中で作り上げているわけです。
そういう表層的なところを含めて、
可能性というものはもう挙げればキリがないぐらい、
こうもあり得る、
こうかもしれない、
ああかもしれない……、
無限にあるわけです。


でも、そうしますとね、
どうなるでしょうか。
あらゆるものの相対化です。
つまり、
何でも鵜呑みにして絶対化するのではなく、
物事を相対化するようになります。
ある種の論理的思考です。
この情報は、こうかもしれない、
ああかもしれない。
あらゆる可能性を考えて、
決して鵜呑みにはしない。
それが客観的態度であり、
知的な態度だと思うようになるわけです。

そして、
「自分は、何て頭がいいんだろう」
と自己満足するようになり、
そうでない人に対して
嘲笑的な態度を
知らずして取るようになってしまいますが、
それはともかく、
この種の「論理的思考」をするようになると、
「知的能力」が飛躍的に上がります。
あらゆる可能性を考えるので、
物事を考えるときに良くも悪くも
非常に慎重になります。


つづく

2010年09月23日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (9)

では、その先はどうなるでしょうか? 

その先が、本当に肝心なところなのです。
本当に肝心なところで、
いわゆるインテリゲンツィアのほとんどは、
ここで止まります。
単なる相対化だけで、止まる。
相対化した時点で、
物事の具体性は無視され、
単なる可能性の一つに「格下げ」され、
「論理学上」実質的に否定されます。

または、
「統計」という極めて恣意的な
「まな板」に乗せられて、
わかりやすい表層的な有意差がなければ、
その存在を否定されます。


相対化が、なぜ必要か。
本来それは、あらゆる可能性を考えつつ、
その対象・事象に迫真していくために必要です。
あえて言えば、本当に何が起こっているのかを、
「ありのままに近く想像する」
「正しく想像する」ために必要なのです。
それ以外ではありません。

しかし、ほとんどの人は、
そこにはいかずに、
ただ相対化して自己満足してしまいます。
あらゆる「可能性」だけを並べ立てて、
あまり意味のない比較をして、
本当に肝心なことは何一つ行わない。


本当はそこから先が最も重要なところです。
そのときにキーワードになるのが、
先ほどの、
小林秀雄さんを通じたベルグソンの言葉です。
「婦人の話をそっくりそのまま、
婦人の経験ってものを、
具体性ってものを信じないで、
果たして夫は死んだか死なないかっていう
抽象的問題に置き換えるから、
そういう結果が起こるんだ」


相対化の視点は、必要かもしれません。
しかし相対化だけをどんどん推し進めますと、
結局どこに行き着くのか?
どこにも行き着かないんです。
本当のところ何が起こったのかという、
最も肝心な存在濃度がどんどん薄まります。
そして薄まるうちに、
何が本当に起こっているのか、
その肝心なところがわからなくなります。
抽象的な可能性がいたずらに、
どれも同じような重さを持って
迫ってくるだけになります。


相対化の視点を獲得することは
必要かもしれませんが、
そのときに具体性まで失ってはならないのです。
世界は、抽象ではなく、具体です。
抽象化とは、
単なる一つの切り口に過ぎませんから、
限られた側面でしかありませんが、
具体にはすべてがあります。
だからこそ、
取り扱いが極めてやっかいではありますが、
単に抽象化してしまったら空虚な観念しか残りません。
そこには何も存在しません。


繰り返しますが、
そもそも一体何のための相対化だったか。
それは、物事の本質に近づいていくためです。
ありのままに近づいて想像するために必要です。
あくまでも、
対象に近づいていく過程の一環として必要です。
しかし、その結果として、
その対象から、
逆にどんどん遠くなってしまうということに
なってしまうとするならば、
それはね……
何かが間違っているということになるわけです。


今の話、
小林秀雄さんも
「これ諸君まだ、なかなかこれはわからないかもしれない、
こんな話では。
これは非常に大きな哲学がありますからね、
その底に、ベルグソンの」
と言っていますが、
いかがですか?
わかりましたでしょうか?


「単なる相対化」の何が間違っているか?
ベルグソンの言う
「置き換え」が、
いかにして「科学的手法」において起こっているのか?
実はこれ、なかなかわからないんです。
まあ、皆さんは
私よりもずっと呑みこみがいいかもしれませんが、
私は何度も聴いて、
読んで、
三十回目ぐらいに初めてだんだん染み込んできました。
最初はね、なかなか受け付けないっていうか、
一応話としてはわかるんだけれども、
こう染み込んではこなかったんです。


つづく 

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (10)

そうした中で、
この若い女の人が言ったことというのは、
すごく重要なんですね。

「先生のおっしゃることは、
非常に論理的に正しいけども、
何か私は先生が間違っていると思います」
という、この感覚ですね。

医者の言ったことは、
本当の論理というより、
論理の一部であるところの
「形式論理」に過ぎませんが、
それでも一見論理的に正しそうに見えるわけです。

だけども何かが違う。
その何かということですよね。
それが非常に重要なんです。

それは何だったか?


それは結局ベルグソンが、
後で言っているように、
この医者は、この話というものをね、
無意識的に抽象化してしまっているわけです。

抽象化というのは結局、
一般化ですね。
抽象化する、一般化するということが
重要だというふうに思い込んでいる。

単なる一つの具体例だけではなく、
一般化できる法則性を見つけようとする。
具体的な、
「これはこうだった」という
個別性の中に閉じこめられるのではなく、
もっと広く普遍的な法則性を見つけようと考えるわけです。

とにかく一般化しなければならない。
一般化することが科学だというふうに、
思い込んでいるわけです。


ですから、そのご夫人の話は、
科学者が聞くと、
知らず知らずのうちにすり替えられます。

どのようにかというと、
結局その幻なり夢なりを見たときに、
それが実際に起こっているか、
起こっていないか、
そういう問題にすり替えられるんです。

でも、すり替えたと思っていないんですよ、
普通の科学者は――

まあ、私は科学者という言葉にかなりこだわりがあって、
ほとんどの科学者の方を、
「科学産業従事者」と呼んでおりますが。

彼らは、
処理していない生データには意味がない、
という訓練をされてしまっています。
彼らにとって
「日常」の中にそのままある
通常の生データというのは、
バイアスの塊という位置づけであり、
初めから問題外です。
科学的に認められるデータというのは、
いろいろなバイアスを排した
特殊な条件下で得られるものであり、
それを統計処理して初めて結果が出る。
それをすることが
科学的検証だと思い込んでいる。
私もその中に、
ずぶずぶとはまっていたわけです。


抽象化すること、
一般化することにあまりにも慣れている。
まるで一般化して初めて
真実が浮かび上がってくるかのように思い込んでいるので、
ここはね、実は非常に大きな厚い壁なんです。
私にとっても、非常に厚い壁でした。

小林秀雄を読んでも、最初は、
「うーん、どういうことなのかよくわからない、
どうしてそういうことになる?」
という感じだったんです。


でも、ここで思い返したいのは、
このご夫人は、
ただこういうことが起きたということを、
ただ話しただけです。
それ以上でもそれ以下でもないということなんですね。
このご夫人には何の問題もありません。

しかし医者が、
ご夫人が話したことを、
それは正しいか、
正しくないかという問題に置き換えていて、
置き換えているということにも
気がついていないということなんです。


つづく

ホメオパシーの科学性@大阪セミナー (11)

この後、小林秀雄さんの、
科学についての話が始まります。

最初に言いましたように、
Scienceという言葉は、
十九世紀までは「知」という意味であり、
Philosophy(原義は「知の追求」)と同じ意味でした。

Scienceが、今の「科学」という意味
になったのは最近のことで、
Scienceの本質的な意味は、
本当の知を追求することでした。
本当の知。本当の知とは、
現象にありのままに近づいていくこと、
迫っていくということです。

世の中にはいろいろな現象がありますが、
その現象にありのままに迫っていくこと。
それがサイエンスなのです。

そして、現在で言う「科学」は、
この数百年の間ににわかに勃興したものです。
そして、その「科学」というものは、
この数百年の間、非常に発展しました。

どのようにして発展をしていったのかというと、
こういうことなんです。

物事をありのままに見る、
ありのままに近づいていくというのは、
まあ言ってみれば無理なんです。
世の中にはいろんなことが起こっていますから、
非常に難しい。

ですから、まずは限定をするんですね。
限定をして、すごく狭めるわけです。
非常に狭めて、
まずはとっつきやすいところから始めましょう
ということなんです。


とっつきやすいものと言えば、
まずは「測れるもの」です。
ですから、天文学や物理学とか、
そういうふうに
割と簡単に測れるようなものから
科学は始まってきたわけです。


その事情は、仕方がないことであり、
それ自体には何の問題もないわけなんです。

だってそうでしょ、
最初はわかりやすいところから始めるしかないんですから。
まずは限定して、
「この狭い範囲から始めます」ということを、
ちゃんと自覚し、
わかっていれば何の問題もないんです。

しかしながら、
この方向でどんどん発達をしていくと、
次第にその自覚がなくなってきて、
倒錯します。

科学は限定をしたところからしか出発できない、
そこしか範囲にできないという、
それをわかっていれば「健全」なことであったのですが、
それに慣れてきて、
それなりに目覚ましい成果が上がってくると、
大きな慢心が始まったわけです。

やむなく限定することで始まった、
いわゆる科学的手法というものが、
いかにも素晴らしい方法で、
それが真理に近づいていく
唯一の方法であるというふうに、
まったくお門違いの錯覚に陥るようになった。

もちろん本当の科学者は違いますよ。
しかし、見方がまったく逆転し、
倒錯したものになってしまっていることに
気がつかないでいる、
そういう「おめでたい人たち」が
たくさんいるということなんです。

そうなると、
いわゆる科学的手法に乗っからないものについては、
「科学的に証明されていないから、
科学的ではない」、と。
そして単なるニュアンス、
イメージから「それは信頼できない」、
というふうに、
論理がまったくすり替わるようになってしまった。
そして、論理がすり替わっていることに気がつかない、
本末転倒なことになってしまったのです。


今の手法というものが
限定されたものに過ぎないっていうことを理解した上で、
真実に肉薄しようとしている
本物の科学者というのも、
数は少ないけれど確かにいらっしゃいます。

しかし、
気がついていない人たちのほうが
はるかに多いです。

それはそうですよね。
仕方がありません。
小林秀雄さんもおっしゃっているように、
これはとても難しい、
ある種「高級」なことなんです。

「高級」という言葉は、
あまり使いたくないのですが、
これは誰にでもすぐわかることではない、
ということです。

しかし、本当の科学者、
本当のリアリティーに肉薄しようとしている方々は、
今の「科学的手法」というものが、
どれだけ限定されたものに過ぎないかということを、
ちゃんとわかっています。


後で詳しく申し上げるつもりですが、
ホメオパシーは一切の抽象化をしません。
具体性を何一つ失わず、
具体性の平面上だけを推移します。
プルービングと臨床、
ホメオパシーはこれだけです。

「健康な人に投与して、ある症状を起こせる物は、
その症状を持っている人に投与すると治癒することができる」。

これがホメオパシーです。

「健康な人にある物質を投与して、何が起こるのかを見る」、
完全に、具体平面上ですね。
そして、
「似た症状を持つ人にその物質を投与して治癒するかを観察する」、
これも完全に具体平面上です。
何一つ、抽象化する作業がありません。


時間になってきましたので、
第一部の話はここで終わりたいと思います。

第二部で松本先生から、
「系の限定」など、
いろいろなお話をうかがって、
第三部ではゆっくりと対談的にお話をしていきたいと思います。

第一部のまとめとしては、
①まずは不思議なもの、
今現在理解できないものに対して、
どのような態度で臨むのが本当に正しいのか、
それを改めて問い直さなければならない。
まるで自分が知的であることの証明であるかのように
錯覚して嘲笑する人もいますが、
単なる嘲笑には何の意味もなく、
くだらないっていうこと。

それから、
②何でもすぐに抽象化し、一般化する、
それは確かに必要なことでもありますが、
ただ抽象化で終わったのでは、
物事には近づけないということ。

そして、③科学というものは、
物事を限定し、
系を限定して初めて発展できたんだけれども、
系の限定をしているということを忘れたら
何にもならない、
本当の現実にはそれ以上は決して近づけないということ、
ですね。

この三点をまず、
まとめとして挙げておきたいと思います。

では、松本先生、お願いいたします。

2010年09月24日

ホメオパシーの科学性@大阪セミナーの引っ越し

ホメオパシーの科学性について、
7月の大阪セミナーの内容の一部を、
ブログに連載してきました。

ただ、この内容は、
本来は私のブログというよりも、
HPのコンテンツとして出す方が良いのでは、
という声があり、
私もそう思いますので、
近々引っ越しします。

日本ホメオパシー振興会、ハーネマンアカデミー、
どちらにもアップしますので、
HP上にアップされましたら、
こちらのブログ上からは
削除させていただきます。


なお、大阪セミナーの内容の全体を
HP上で公開する予定です。

また、書籍としても出版する予定です。

よろしくお願いします。

2010年09月25日

ベーチェチョルさんのコンサート

いよいよベーチェチョルさんのコンサートが近づいてきました。

http://www.voice-factory.com/main/log/eid142.html

べーさんのことは、今まで何度か書いてきましたが、
べーさんのことを思うと、涙がでます。
べーさんを支えてこられた輪嶋東太郎さんのことを思うと、
心が震えます。
一色先生のことを思うと、ほっこりし、溶けていきます。

べーさんは、8月末に新たにレコーディングをされました。
信じられないくらい素晴らしいレコーディングだったそうです。

CDが発売されるのが、本当に楽しみです。

ぜひ、べーさんのコンサートにご一緒しませんか?


【東京】
日時:10月20日(水)19時開演(18:30開場)
会場:Hakuju Hall (渋谷・代々木)
ピアノ:松崎充代
主催:ヴォイス・ファクトリイ株式会社
協力:いのちのことば社
後援:駐日韓国大使館 韓国文化院
全席指定:6500円

【大阪】
10/8(金)19時開演 大阪いずみホール
全席指定5500円

【福岡】
10/11(月・祝)16時開演 福岡西南学院大学
全席指定5500円

【仙台】
10/14(木)19時開演 青年文化センターコンサートホール
全席指定5500円

【名古屋】
10/16(土)14時開演 三井住友海上しらかわホール
全席指定5500円

です。


私は、東京と大阪に行く予定です。
そのうち、大阪は、何とホメオパシー国際セミナーの前夜にあります。
今年は、初めて大阪で国際セミナーを行います。
Richard Pitt先生が、お話しされます。

http://www.hahnemann-academy.com/school-life/seminar/index.html

先日いらっしゃいましたが、本当に素晴らしい先生です。
ホメオパシーについての見識は非常に高く、
非常に魅力的で、ぞくぞくしました。

このRichard Pitt先生のセミナー、
そしてその前夜のべーさんのコンサート、
ぜひぜひご一緒できれば、と思います。


べーさんに魅せられた卒業生、在校生の方は、
多くいらっしゃいます。
その一人、井上喜子さんが、
卒業生、在校生に出されたメッセージが
素晴らしいメッセージだったので、
井上さんに許可をいただいて、
転送させていただきます。


****************************

「国際セミナー前夜祭のお誘い」

 こんにちは。10期生の井上喜子と申します。
本日は国際セミナー前夜に大阪で行われます
「ベー・チェチョル テノールリサイタル」に
皆様をお誘いしたく、メールした次第です。

ベーさんは韓国のテノール歌手です。
数年前の全学年合同授業でDVDをご覧になって
記憶されている方もいらっしゃると思います。

彼はイタリアの数々のコンクールで優勝し、
ドイツの歌劇場でソリストとして歌っておられたのですが、
2005年甲状腺がんの診断を受けて手術した際、
声帯と横隔膜を動かす神経を切断されてしまい、
歌手としての復帰は不可能である・・と宣告を受けました。

芸術家がその表現手段を奪われる・・
というのは生命を奪われることに
等しいことではないかと思います。

絶望と戦いながら
ベーさんは歌をあきらめることなく可能性を探り、
血の滲むような努力を重ね、
2008年ついに
医学的にはどう考えても奇跡としか言いようの無い
舞台復帰を果たされました
(いまだに神経は切れたままだそうです)。

そして舞台を重ねるごとに進歩し続け、
この秋の舞台では
ついにオペラアリアを披露されるということです。

オペラアリアを歌う・・ということは
一定の声量と音域、表現力が要求されますから、
それがどんなにすごいことか、
オペラに興味のある方にはお分かりでしょう。

声帯を切る前の彼の声は
それはそれはブリリアントなものでした
(私は本当に驚き、感激しました!是非CDを聴いて欲しいです!)。

その声は失われましたが、
復帰したときの歌声は
「暖かく人を癒す、全身全霊の声」
と表現できるようなものでした。

この声を獲得するために
前の声を失い、苦しい道を通って来たのだ・・・
と言えば、それは結果論だろう・・
と反論されそうではありますが、
「成るべくしてそう成った」としか思えない、
そうした道筋だと感じています。

その道を通らずして
「人を癒す歌」など歌えるわけもありませんから。
そしてそれは「人」としても「歌」としても格段の成長なわけです。


芸術は人の心の奥底から生まれます。
時間も空間も無い、
不可能という言葉も存在しない、
「永遠の場所」です。
それに「普遍的無意識」と名付けた心理学者もいます。

誰もが持っているものではありますが、
普通の人がそこにアクセスできるのは、
夢をみているときや魂がふるえる何物かに出逢ったとき、
「ひらめき」が生まれる瞬間あたりでしょう。
本物の芸術家はそこから表現を生み出し、
周囲の人に伝えることができる・・という天分を持ちます。
その表現が生命をもって人の心に「感染」し、
その人の心をふるわすわけです・・・
レメディにそっくりでしょう? 

芸術を通してそれを体験してみませんか?
人間が生み出すものにどれほどの力があり、
人間自身にどれほどの可能性があるか感じてみませんか?
とてもすばらしいホメオパシーの学びとなることでしょう。

*******************************************************************

先日ベーさんのコンサートのチケット第一陣を申し込んだところ、
輪嶋さんからこんな返信がありました。


 今回の公演では、べーさんがいよいよ
 オペラアリアを歌います。
 先日、レコーディングのためのリハーサルを
 行うため、来日しましたが、
 あまりの素晴らしさに、涙が出ました。
 一人でも多くの方にきいていただかなければならないと
 改めて感じています。
 どうぞお力をお貸しください。


この文章を読んだだけで、私なんかは涙が滲んでしまいます。
どれほどかすばらしい歌だろう・・・と聴いてもいないのに
もう感動しています(笑)。


井上喜子 

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