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2008年12月 アーカイブ

2008年12月04日

サンド(商道)

韓国ドラマで、サンド(商道)という番組があります。

とても面白く感動的なところのあるドラマです。
その中で、特に心に残った言葉があります。

「サンド(商道)とは、金を残すことではなく、人を残すことである。」

という一節です。

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素晴らしい理想的な商人でありながら、
商敵の策略にかかって、破産してしまった都房(社長)が、
手塩にかけた部下の前で、
「私は金を失った。だがお前たちのおかげで、朝鮮一の金持ちは私だ。」
という言葉がありました。

とても感動的でした。
これからの、私の座右の銘の一つにしたいと思います。


ホメオパシーは、通常の意味でのサンド(商道)ではありませんが、
ホメオパシーは全てに通じています。
お金とは何か、ということもまた書きたいと思います。


2008年12月11日

ホメオパシーの基本 (1)

最近、ホメオパシーの学校が少しづつ増えてきたようです。
日本で最初にホメオパシーの本格的学校を建てた者として、
ホメオパシーの学校が増えることは、
それ自体はとても嬉しいことですし、素晴らしいことだと思います。
これから、良い学校が一つでも多く出来れば良いのに、
と心から思います。


しかし、残念ながら必ずしも手放しで喜べないのが現状です。
この学校はなかなかいいな!
参考になるな!と思える学校が、
私の知る限りあまりありません・・・

この学校はなかなか素晴らしい、優れた学校だよ、
私も負けないように頑張らなくちゃ!、と言えるところが
少しでもあって欲しいと思います。


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いつも学校説明会の時に言ってきました。
ホメオパスという存在、仕事は、
縮めて言いますと「医師とお坊さんを融合」したような仕事であって、
マテリアメディカを学び、レパートライズを勉強しさえすれば、
「さあ、これであなたはホメオパスです」、というものではありません。
そういう How to だけを覚えた人は、ホメオパスと呼ぶよりも、
せいぜい「セルフケアーアドバイザー」
もしくはミックの言う「なーんちゃってホメオパス」であって、
本当のホメオパスではありません。

レメディーももちろん勉強しなければなりませんし、
レパートライズももちろん出来るようにならなければなりません。
ただ、それだけでは本物のホメオパスにはなれません。
それは、セルフケアの延長に過ぎず、
「学生の自己満足」に過ぎず、
苦しんでいる患者さんには役に立ちません。


私は学校説明会の度に、ハーネマン・アカデミーは、
狭い意味での「職業訓練所」ではない、と力説してきました。
・・・もちろん一人前のホメオパスになった暁には、
当然ながら「仕事として十分に成り立つ」
ようでなければなりません。
しかし、「何かいい仕事はないかなー」という、
いわゆる「単なるお仕事探し気分」でいらっしゃる方は、
ハーネマン・アカデミーには、向きません、
といつも申し上げてきました。

2008年12月12日

ホメオパシーの基本 (2)

それでは、本物のホメオパスとは、
どういうホメオパスのことを言うのでしょうか?
当たり前のことではありますが、
ホメオパシーが対象とするのは、
人間を含む生きとし生けるもの全てであり、森羅万象の万物全てです。
その対象を知らずして、ホメオパシーはあり得ません。
ですから、本当のホメオパスの第一は、
まず人間に本当に興味を持ち、探求し、
ホメオパシーを通じて自分自身を磨いていくことです。


スキルを習得することは当然ですが、
「ホメオパスのスキル」とは、
狭い意味での単なるホメオパシーの知識や
俗に言う「実践的知識」だけでは足りません。
それだけでは、根無し草のようなものです。
自分自身が成長し、
人間を理解するようになり、
自らの偏見から次第に解放されるプロセスが、
全てのスキルの根底にあるからです。


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良いホメオパスになっていく教育は、
ちょうど家を建てるのとよく似ています。
家を建てるのに、基礎工事を行わずに、
いきなり上屋を建て始めるでしょうか?

しかし、家を建てることをよく知らない人がいたら、
基礎工事をせずに、いきなり上屋から建て始めるでしょう。
基礎工事をしているのを見て、
「何を馬鹿げて無駄なことをやっているんだ! 
なぜ地面ばっかり掘って、肝心の家を建てないんだ!」
「人間のことなんて、私はもうよく分かっている。
学ぶ必要があるのは、レメディーやレパートライズ、
そしてケースのことだけだ!」

不思議なことというか、考えてみればもっともなことですが、
人間をよく理解していない人ほど、
人間理解の授業を嫌がります。
あたかも「自分は十分に人間を理解している」、とでも言いたいように。

それはともかく、
建った家だけ見ると、基礎工事をした家もしていない家も
同じように見えるかもしれません。

ちょっと見た目には、同じようにしか見えないでしょう。
そして、それを同じ家がコストも半分以下、
建築期間も半分で出来ます、と言って売るとどうなるでしょうか?

おそらく、飛ぶように売れるでしょう。
そして、その結果、その家に住んだ人はどうなるでしょうか?
正に以前に起きた「耐震偽装問題」を思い出します。
考えるだけで恐ろしくなります。


これからは、ホメオパスを養成する本格的なコースと、
セルフケアーアドバイザーを養成するコースとを、
はっきりと分ける必要があると思います。
両方の資格の定義と、資格取得のための要件とを、
きちんとしていきたいと思います。
年数や、教育内容などを、きちんと定義する必要があります。


もっと忙しくなっちゃいますね・・・・・

2008年12月13日

ホメオパシーの基本 (3)

ホメオパシーを学ぶ上で最も大切なことは、
「自分が学びやすいように学んではいけない!」
ということです。


???と思われるかもしれません。
学びやすいように工夫をするのが
学ぶコツではないの?
と思われるかもしれません。


ホメオパシーの勉強は大変です。
道に迷うこと、しばしばです。
当然です。
「道なき道」がホメオパシーの道なのですから。
・・・というか、
本当は、ホメオパシーの道ははっきりとした明確な道なのですが、
同時に混沌とした道なき道でもあります。

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そうすると、ホメオパスにとって常に大きな誘惑が襲います。
「もっと分かりやすい道があるはずだ」
「もっと学ぶ側に立った親切な道があるはずだ」と


学ぶ工夫は、とても大切です。
非常に重要です。
ただ、その工夫とは、
単に学ぶ側にとって「都合の良い学び方」であってはなりません。
そうすると、学ぶには都合が良いけれども、
実際の患者さんには役に立たない学び方になってしまいます。

つまり、レメディーの学び方は、
患者さんに対して役に立つような学び方でなければならない
のです。


本当は当たり前のことですが、
自分の学び方にとって都合の良い学び方をしてしまいがちです。

患者さんに本当に役に立つホメオパスになる、
そういう学び方でなければなりません。

つづく

2008年12月14日

ホメオパシーの基本 (4)

例えば、何の脈略もなくレメディーを学ぶのと、
体系的、システマティックに学ぶのと、どちらが良いでしょうか?

もちろん! 体系的、システマティックに学ぶ方が良い! 
と思われる方が多いと思います。
何の脈略もなく学ぶのは、
一見とてもばらばらで、無意味な感じがします。


それに対して、体系的に学ぶ。
例えば、蛇なら蛇、蜘蛛なら蜘蛛類として学ぶ、
これは最近の流行です。


体系的に学ぶ学び方には大きな利点があります。
例えば、Lachesis という有名なレメディーがあります。
南米の大きな大蛇です。
このレメディーには、大きな特徴があります。


「饒舌で口八丁手八丁」
「嫉妬深い」
「猜疑心が強い」
「人を欺す」
「透視能力」
「早熟」
「非常に魅力的」
「色や音楽を愛好」
「宗教に対して愛着」
「迫害」
「見捨てられた感覚」
「月経前症候群」
「月経時の頭痛」
「「喉の締め付け感」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たくさんの特徴があります。
そしてこのような症状は、みんなLachesis というレメディーの
特徴的症状だと思われてきました。

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しかし、そうではない。
上記の症状は、蛇全体に流れる、
ある程度共通した特徴であることが
分かってきました。

そうしますと、今までLachesis の特徴だと
思われていたものは、
実はLachesis の特徴ではなく、
その多くは蛇全体に共通する特徴である、
ということになってきます。

すると、Lachesis というレメディーを学ぶには、
まず蛇全体の特徴を学び、
その後にいろいろな蛇のレメディーの一つとして学ぶのが良いのではないか、
というように考えるようになります。
そして、事実最近はそのような学び方が、
世界の流れです。

つづく

2008年12月15日

ホメオパシーの基本 (5)

もちろん、これはこれで、よく分かる話ですし、
ちゃんと理由のある、ある意味とても良いことだと思います。
ハーネマン・アカデミーでも、
レメディーを学ぶ時に、そういう学び方もします。

しかし! それでも私は最初の段階から体系的に学ぶことの方が
絶対に良い! とは思えないのです。
体系的に学ぶ時には、
その弊害にも気をつけなければならない、と思います。

なぜか?

患者さんは、「体系的」に来られるわけではないからです。
患者さんは、何の脈略もなく、全くばらばらに来られます。


「体系的」に学ぶことに慣れ過ぎますと、
「体系に沿って」患者さんを見るようになってしまいます。
もはや、その人自身を見るのではなく、
何かの属やシリーズやファミリーの一つとして
見るようになってしまうのです。
それは、「分類」であって、人を見ているのではないのです。

レメディーを選ぶことは、「分類」に似ています。
しかし! 断じて「分類」ではありません。
「分類」とは、「類型化」することです。
そして、ホメオパシーは決して「分類」でも「類型化」でもありません。
レメディーを選ぶとは、レメディーが「屹立」することです。

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レメディーを学ぶ時には、
まず、そのレメディー自体を「絶対的」に学ぶ必要があります。
いきなり他のレメディーとの関連性の中や、「相対的」にではなく、
まず、そのレメディーそのものの理解を、しっかりと確立する必要があります。

そして、そのレメディーの症状像がある程度確立してきたときに、
他のレメディーとの違いを学んだり、関連性の中において学ぶと、
そのレメディーがより深く理解できるようになり、
レメディーの症状像が、より「屹立」して迫ってくるようになります。


つまり、レメディーを学ぶのに最も良い方法は、
何度も何度もレメディーを繰り返し学びなおすことです。
最初はそのレメディーを、そのレメディーとしてしっかり学ぶ。

それがしっかりできた後、
他のレメディーとの関連性の中で,相対的にも学び、
そしてまた絶対に還ってくる、
それが最も良い方法なのです。

2008年12月17日

目的は手段を正当化しない (1)

私の人生の中で、最も影響を受けた本の一つが
量子力学の建設者の一人、ハイゼンベルグの
自伝的な本、「部分と全体」(みすず書房)です。

この本を初めて読んだのが、20歳の頃だったと思います。
それ以来、座右の銘のように、
繰り返し繰り返し、おそらく数百回は通読したと思います。

この本で、衝撃を受けたところはいくつもありますが、
その一つは、
「目的は手段を決して正当化しない」
ということです。


それまで私はこのように考えていたと思います。

世の中には素晴らしい目的を持ちながらも、
さまざまな事情で、
その実現はなかなか困難な場合がある。
しかし、その目的とするところは、
本当に素晴らしい、真っ当で正当なものであり、
ぜひとも実現しなければならない。

そういう場合には、どうしてもやむを得ず、
必ずしも良いとはいえない方法を、
一時的にはとらざるを得ない場合があるのではないか、
もちろん、理想としては、
目的も手段もどちらも素晴らしいものでありたいけれども、
しかし、現実には難しい場合もあるので、
どうしてもやむを得ない場合もあるのではないか・・・

私はどこかしら、
このように思っていたのではないかと思います。


しかし、その考えは、この本によって
粉々に粉砕されたのでした。

少し長いのですが、引用したいと思います。
(版権を侵害しない程度であれば良いのですが・・・)

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Ⅳ 政治と歴史についての教訓――1922-1924年

一九二二年の夏は、
私にとってはなはだ失望的な一つの経験で終った。
私の師、ゾンマーフェルトは、
ライプチッヒで行なわれる
ドイツ自然科学者および医学者の大会に
出席することを私にすすめた。

その大会では、主な講演の一つとして、
アインシュタインが
一般相対性理論についての報告をすることになっていた。

父がミュンヘンとライプチッヒ間の往復切符を買ってくれたし、
今度は相対性理論の発見者が
自身で語るのを聞けることが嬉しかった。

ライプチッヒにつくと、
もう少しましな所へ泊るだけの経済的な余裕がなかったので、
市中の一番貧しい地域の、一番安いホステルに宿をとった。

会場で私は、ゲッチンゲンの“ボーア祭り”の間に知り合った
二、三の若い物理学者たちと出会った。

アインシュタインの講演について彼らに尋ねたところ、
今から数時間後、
その日の夕方に行なわれる予定であることを知らされた。

そのさい、ある緊張した雰囲気に気がついたが、
それが何によるのか、その場ではわからなかった。
私は、ここではすべてがゲッチンゲン当時のそれとは
全くちがっているのを感じとっていた。


中略


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アインシュタインの講演は大きなホールで行なわれた。
そのホールは劇場と同じように、
多くの小さなドアによってどこからでも入ることができた。

そうしたドアの一ヵ所から私が入ろうとしたとき、
一人の若い男が私を押しつけた。
後で聞いたところによると、
その男は南独の大学都市の
ある有名な物理学の教授の助手か学生であったそうだが、
アインシュタインおよび彼の相対性理論に対する
警告が書いてある赤い紙切れのような印刷物を手にしていた。

ビラにはおよそ次のようなことが書かれていた。
この相対性理論というのは、
ドイツの人間には無縁なユダヤ新聞の誇大宣伝によって
厚顔にも過大評価された
全然不確かなスペキュレーションを取り扱っているだけだと。

最初の瞬間、
私はそのビラはこのような学会によく現われる
気狂いの仕わざにちがいないと思った。
しかしそのビラの発行者が、
実験上の重要な研究業績によって高く評価されている人物であり、
ゾンマーフェルトが彼の講義でも
しばしば名をあげたことのある
物理学者であることを知らされたときに、
私の最大の願望は粉砕されてしまった。

なぜなら私は少くとも学問というものは、
ミュンヘンの内乱でいやになるほど知らされた
政治上の意見の争いからは
完全に遠ざかっていられると確信していたからであった。

ところがここで私は、
性格が弱かったり病的な人間を通すと、
学問的な生命さえも
悪意のある政治的な激情によって汚染され、
ゆがめられ得るものであるということを見たのであった。

言うまでもなく、そのビラの内容は
ヴォルフガングが私に折にふれて説明してくれた
一般相対性理論に対するいろいろな私の疑念を払いのけ、
いまやこの理論の正しさにかえって確信をもたせることとなった。

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というのは、私はミュンヘンの内乱の経験によって
すでにずっと以前から、
政治的な方針は、大声で宣伝したり、
あるいはおそらくは本気で達成しようと努力している
目標によって決して判断すべきではなく、
その実現のために使用される
手段によってだけ判断しなくてはならない

ということを十分よく学んでいたからであった。

不正な手段を使うことは、
その張本人が
自分の命題(テーゼ)の説得力を
自分自身でもはや信じていない、
ということの証拠にちがいないのだ。

ここで一人の物理学者が
相対性理論に反対して使用した手段は大変まずく、
かつ事実に則していないものであったので、
明らかに、この反対者は相対性理論を
学問的に論破できる望みを
すでに持っていないことを示していた。

だが、このような幻滅の後では、
私はアインシュタインの講演にも、
もはや身を入れて聞くことができなかったし、
会議が終った後で、
たとえばゾンマーフェルトの紹介によって
アインシュタインと個人的に知り合おうという努力もあえてしなかった。

意気消沈してホステルヘもどった私は、
私の全財産、つまりリュックサックとともに
下着も着替の背広も、
そっくり盗まれたことを知らねばならなかった。

幸いにもまだポケットの中に、往復切符だけは持っていた。
私は駅へ行ってミュンヘン行きの次の汽車に乗った。


「部分と全体」みすず書房より
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_gw?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%95%94%95%AA%82%C6%91S%91%CC

2008年12月18日

目的は手段を正当化しない (2)

これを読んだとき、頭をがーんとぶん殴られたような衝撃がありました。

不正な間違った方法を使うということは、結局何を意味するのか?

それはその張本人自身が、
自分の言っていること、一応本気で実現しようとしているはずの、
その「目的」なるものを、
実は本当には自分自身の中で信じきれていないからこそ、
そういう間違った方法を使う、ということであるというわけです。

それまでは、達成しようとしている「目的」さえ正しければ、
ちょっとしたことというか、多少のことは許されるんではないか、
必ずしも良いとは言えないかもしれないが、
現実的には仕方がない面もある。

歴史の教訓からも、
政権を取ったり、政府を倒したりした人たちが、
必ずしもまともな方法でやったとは限らない。
その時は反政府的であることは、よくあることであるし、
本当にすばらしい目的があるならば、
その手段が多少荒っぽくても
仕方がない面もあるのではないかとも思っておりました。

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しかし、本当によくよく考えてみると、
もしその最終的な「目的」なるものを
自分自身で本当のところを本当に信じきれていて、
これは絶対に正しいんだっていうことを、
本当に自分の底の底まで、
無限の底の底まで信じきれているとするならば、
そのように間違った、安易な「手段」を考える前に、
もっと本質的な、
それを実現するためのちゃんとした「手段」というものを
必ず考えうるということです。

この「目的」のためだったら
これぐらいは仕方がないのではないかと思ったとき、
本当にその「目的」なるものから、真摯に真っ直ぐそこに至ったのか・・・・・

そのことについてよーく考えてみると、
むしろ心の弱さからきた、
そういうことである場合が、とても多いように思います。


実際には、本人が言い張っているほど目的のことを
真剣に考えているわけではなくて、
実は割と早い段階で、割と安易に、
その目的なるものを、
「錦の御旗」みたいに押し立ててしまっている。
そして実際には、割と簡単に安易な手段を取っているに過ぎない、
ということが、実はとても多いということに気がつきます。

少なくとも、私自身の場合には、
まさしく自分はそうだった、と思い至りました。


本当に素晴らしいことを実現しようとしているならば、
単にそれが一回だけ起きれば良いというものではないはずです。
持続的、永続的に続いていかなければなりません。

手段とは、「目的を実現するための単なる手段」ではなく、
「目的の本質」である

とさえ言えるものです。

目的は手段を決して正当化しない。   

その時の私にとっては非常に大きなショックであり、
ちょっと大げさに言うと、「青天の霹靂」でした。

2008年12月24日

「日本一安い?」お寿司 (1)

安い、とは何でしょうか?

私が今まで食べたお寿司の中で、「これは安い!」と思ったのが、
実は、銀座の最高級寿司店「久兵衛」です。


ここのランチは、4千円です。


ですから、安い!といっても100円とか300円とか、そういう話ではありません。

4千円という金額をどう考えるか、ですが、
ちょっと居酒屋に行っても、
すぐに4千円くらいかかってしまうことを考えますと
(これはこれでビックリするのですが)
4千円という金額は、決して購えない金額ではありません。


大切なお客様や、寿司に眼がない外国からお客様が来られると、
私はまずここに連れて行きます。
そうすると、まずみんな眼を丸くして、びっくりします。

こんなに美味しい寿司は食べたことがないし、想像したこともない、
これが寿司だとすると、いつも食べているのは何だったんだろう!
という反応です。


ここのランチを食べるたびに、
こんなに安い寿司は食べたことがない!
と感じるのです。

そして、ここでは二川(ふたがわ)さんというシェフが
一押しです。
その技術、接客、全てが満点です。
こんなに気持ちの良いシェフは、
めったにいるものではありません。
お寿司の場合は、
シェフが直接、食材を手で握るわけですから、
特に重要です。
ですから、いつも「二川さん前」と指定します。
(何だかバス停みたいですが)


さて、一昨日、キム先生がアメリカに帰られる前に、
久しぶりに久兵衛を訪れました。
その時に聞いた話が、とても面白かったのです。

つづく

2008年12月25日

「日本一安い?」お寿司 (2)

キム先生は、二川さんがいつも使っている包丁に眼を留めました。
そして、その包丁はステンレスなのか、普通の鉄なのか、尋ねました。

その包丁は、いつもピカピカで、疵一つないように見えます。
二川さんは、握り一人前を握る間に、
手とふきんを10回以上洗いますが、
その包丁もふきんで10回以上拭きます。


「これは、普通の鉄で、ステンレスではありません。」
と二川さん。


「なぜでしょうか?
ステンレスは錆びないし、ステンレスの方が便利では・・・・・
では切れ味が違うのですか?」
とキム先生。


「そうですね。ステンレスと鉄とでは、
粒子の大きさが違います。
ステンレスも随分良くなっているのですが、
実際に切ってみると、
やはりステンレスは粒子が大きくて、
包丁が鉄のようにはうまく入っていきません。
鉄の包丁の方が、すっと入ります。
と二川さん。


「うーん。そうですか。
その包丁は、いくらしますか? どこで買えますか?」
とキム先生。


「この包丁は、特別なもので、普通にお店で売っているわけではありません。
大阪の個人の職人さんに依頼して、特別に作ってもらったものです。
個人個人、また一本一本、包丁に求めているものが違いますから。
まあ完全オーダーメイドです。
こういうものが欲しい、と言ったら、それに合わせて作ってくれます。
大した名人の方なんです。
納期も半年から1年くらいかかります。


でもやっぱりこの包丁にしてからは、切れ味が違うんです。
切れ味といっても、ただの見栄えではなくて、
まさに味に直結するんです。
切れ味が悪い包丁で切った魚は、
極端に言うと、引きちぎったようになります。
それに対して良い包丁で切った魚は、
まるで魚も切られたことを知らないかのように
切られたことを恨みに思わないように、
すーと切られるんです。
恨みに思っちゃうと、味が悪くなります。


包丁によってそのくらい違います。
もちろん毎日一回は研ぎます。


値段は・・・・・だいたい大卒の初任給くらいです。
私は二本作ってもらいましたから、2ヶ月分というところですね。
高いといえば高い。
まあ考え方によっては安いんですけど。


でも同じオーダーメイドでも、もっと安いものもあるんです。
鉄は熱した後、急冷するんですが、
油で冷やすのと、水で冷やすのとがあるんです。
油で冷やす方が、鉄に優しいみたいで、
急冷してもほとんど大丈夫なんです。


でも、水で冷やすと、
冷やし方が極端なので、
3分の2くらいは、割れてしまうんです。
3割くらいしか生き残らない。
でもその生き残ったやつは、
包丁としては最高なんです。
表面は非常に硬いけれども、
全体はしなやか。
粒子が細かいので、どんな細工でもできるし、
切れ味が違う。

ですから、包丁としては、最高なんです。
油で冷やしたものよりもずっと良いのですが、
歩留まりが悪いというか、
だからコストが3倍以上かかってしまうので、
値段も3倍以上してしまいます。」
と二川さんが言われました。


この言葉を聞いて,
なるほど、みんな同じところに行き着くんだなあ、と思ったことでした。

つづく

2008年12月27日

学校 (3)  再び後藤修先生のこと、、アダムのこと、フランスの教育のこと

前回、最高級の包丁は、
熱した後、水で急冷する。
すると3分の1しか生き残らないけれど、
生き残った包丁は最高である。
という話を書きました。

そうすると思い出す話がいくつも出てきました。


一つめは、Adam Martanda の言葉です。
Adam のことは、以前に6月2日のブログの中に書きました。

http://www.hahnemann-academy.com/blog/2008/06/

そこには書きませんでしたが、彼はこうも言っておりました。


君も分かっていると思うが、
何とかものになるのは、せいぜい3分の1だよ。
その中でも、本当に良いホメオパスになるのは、
残念ながら全体の1割しかいない。

私はある時から、その1割の人のみを想定した授業をしてきた。
ホメオパスの使命は、
クライアントの役に立つ、ということ以外にはないから、
本当にクライアントに役に立つ人材を育てるしかない。
だから、実は他の9割の生徒は、
私が想定する対象から外してきたんだ。
だから、9割の人からは随分恨まれたと思う。
自分たちの存在を無視された、という感じがしたと思う。

しかし、本物を育てるにはそれしかない、
私はそう思った。
他の方法もあるのかもしれないが、
私にできることはそれ以外はなかった。
だから、私には悔いはない。

実は、反面教師がいるんだ。
ある学校は、生徒と教師がすごく良い関係で、
素晴らしい「学校運営」をしているんだ。
でも、その学校の卒業生は、
全く使い物にならないことで有名なんだ。
クライアントに対して、ちっとも力にならない。
ホメオパシーの本質を追究する厳しさが全くない。
学校全体が「仲良し倶楽部」みたいになっていて、
「ぬるま湯」のような馴れ合いの学校なんだ。
言ってみれば、9割の人を対象にしているために、
肝心の1割の人を駄目にしている学校だ。
だから私は1割の人を対象にしてきた。


でも君は違うはずだ。
1割の人に対しても、9割の人に対しても、
何らか本質的なことを植え付けることができるはずだ。
本質を追究しながら、
全員をあるところまでには導くことを目指して欲しい。

もちろん全員を「満足」させることはできないだろう。
それはミッシャもできない。
人それぞれだから、それぞれ求めるものが違う。
それでも、全員に対して本質を植え付けることはできるはずだ。
君はそれを目指して欲しい。


このことは、ずっと宿題のように私の心の中に残っておりました。


つづく

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