今日は独り言。独り言。
「学校」とは、いったい何だろう。
私はどうして「学校」を始めたのだろう?
もう10年くらい前になるだろうか。
英国校で同じキャンパスを共有していた友人、
Soluna school of Homeopathy校長の
Adam Martandaが、こんなことを言っていた。
ホメオパシーの本質を本当に追究しようとする学校は、
自分の知る限り、残念ながらとても少ない。本質を追究しようとすれば、
多くの素晴らしい果実を味わうけれども、
まず例外なく大変な苦悩と苦難を味わうことにもなる。
学校運営をうまくやるためには、
多くの「割り切り」が必要だ。
しかし、ホメオパシー的姿勢は、この「割り切り」を拒否する。君は、本質的なホメオパシーをやろうとしているから、
きっと大変な思いをたくさんするだろう。GOOD LUCK!
その言葉をよく思い出す。
本当に大変な10年間だった・・・・・
考えてみれば、「学校」をやろうと思ったことは一度もない。
「学校経営」に興味を持ったことも一度もない。
伝えたいことがある。
伝わる人に伝えたい。
それだけだと思う。
なぜ「学校のようなもの」をやっているのだろう。
森有正という哲学者がいる。
アメリカ、フランス留学中に、
すりきれるほど、何度も何度も読んだ。
フランスに行ったのも、
森有正の本を読んだからだった。
どうしても、フランスに居なければならない、
と強く思った。
どうしても、ヨーロッパの石の文化、
硬質な石の文化に自分を曝さなければならない、
と強く思った。
そしてヨーロッパに何年か居た。
その森有正の生涯をかけてのテーマ、
それが「経験」と「体験」。
普通は経験と体験という言葉を特には区別しない。
だいたい同じように使う。
その時の気分によって、
どちらも同じように使う。
しかし、森有正は、のっぴきならない内的促しによって、
この経験という言葉と体験と言う言葉を、
はっきり分けて使うようになった。
「経験」と「体験」という言葉に、
それぞれ異なった意味を持たせて使うようになった。
これはあくまで、森有正の使い方にしか過ぎないが、
森有正の意味するところには、
私の全存在が深く静かに共鳴する。
森有正の言うところの「体験」とは、
森自身の言葉を借りれば、
「どんな『阿呆』の中でも機械的に増大する」ものであり、
その人の中でしか通用しない、
何の普遍性も持ち得ない、
単なる出来事の集積、それが「体験」である。
それに対して、「経験」とは、
個人のものであるだけではなく、
広く社会全体、人類全体、宇宙全体のものでもあり、
どのような時でも、
どのような場所でも、
どのような状況でも通用する、
「普遍的な経験」を意味している。
そして、「経験」とは、誰に対してでも開かれているけれども、
個人を深めることによってしか繋がることができない。
個人を深めれば深めるほど、
より広く、より多くのあらゆるものと
繋がることができる。
そして、「体験」がその個人を超えることができないものであり、
「閉じている」のに対し、
「経験」は、その個人を超え、
あらゆる人の「経験」となることができる。
それが、読書の意味であり、
学ぶことの意味であり、
「古典」の意味でもある。
人が本当に生きてゆくこととは、
自分の「体験」を「経験」に深化させてゆくこと、
そして、その「経験」を社会に向けて開いてゆくこと、
自分の「経験」を他の人とわかちあうこと。
だから、私は「学校のようなもの」をやっている。
それを忘れないようにしよう。