« 2008年05月 | メイン | 2008年07月 »

2008年06月 アーカイブ

2008年06月02日

学校 (1)

今日は独り言。独り言。

「学校」とは、いったい何だろう。
私はどうして「学校」を始めたのだろう?

もう10年くらい前になるだろうか。
英国校で同じキャンパスを共有していた友人、
Soluna school of Homeopathy校長の
Adam Martandaが、こんなことを言っていた。

ホメオパシーの本質を本当に追究しようとする学校は、
自分の知る限り、残念ながらとても少ない。

本質を追究しようとすれば、
多くの素晴らしい果実を味わうけれども、
まず例外なく大変な苦悩と苦難を味わうことにもなる。
学校運営をうまくやるためには、
多くの「割り切り」が必要だ。
しかし、ホメオパシー的姿勢は、この「割り切り」を拒否する。

君は、本質的なホメオパシーをやろうとしているから、
きっと大変な思いをたくさんするだろう。

GOOD LUCK!


その言葉をよく思い出す。
本当に大変な10年間だった・・・・・

考えてみれば、「学校」をやろうと思ったことは一度もない。
「学校経営」に興味を持ったことも一度もない。

伝えたいことがある。
伝わる人に伝えたい。

それだけだと思う。


なぜ「学校のようなもの」をやっているのだろう。

森有正という哲学者がいる。
アメリカ、フランス留学中に、
すりきれるほど、何度も何度も読んだ。
フランスに行ったのも、
森有正の本を読んだからだった。
どうしても、フランスに居なければならない、
と強く思った。

どうしても、ヨーロッパの石の文化、
硬質な石の文化に自分を曝さなければならない、
と強く思った。
そしてヨーロッパに何年か居た。


その森有正の生涯をかけてのテーマ、
それが「経験」と「体験」。

普通は経験と体験という言葉を特には区別しない。
だいたい同じように使う。
その時の気分によって、
どちらも同じように使う。

しかし、森有正は、のっぴきならない内的促しによって、
この経験という言葉と体験と言う言葉を、
はっきり分けて使うようになった。
「経験」と「体験」という言葉に、
それぞれ異なった意味を持たせて使うようになった。

これはあくまで、森有正の使い方にしか過ぎないが、
森有正の意味するところには、
私の全存在が深く静かに共鳴する。

森有正の言うところの「体験」とは、
森自身の言葉を借りれば、
「どんな『阿呆』の中でも機械的に増大する」ものであり、
その人の中でしか通用しない、
何の普遍性も持ち得ない、
単なる出来事の集積、それが「体験」である。

それに対して、「経験」とは、
個人のものであるだけではなく、
広く社会全体、人類全体、宇宙全体のものでもあり、
どのような時でも、
どのような場所でも、
どのような状況でも通用する、
「普遍的な経験」を意味している。

そして、「経験」とは、誰に対してでも開かれているけれども、
個人を深めることによってしか繋がることができない。

個人を深めれば深めるほど、
より広く、より多くのあらゆるものと
繋がることができる。

そして、「体験」がその個人を超えることができないものであり、
「閉じている」のに対し、
「経験」は、その個人を超え、
あらゆる人の「経験」となることができる。
それが、読書の意味であり、
学ぶことの意味であり、
「古典」の意味でもある。

人が本当に生きてゆくこととは、
自分の「体験」を「経験」に深化させてゆくこと、
そして、その「経験」を社会に向けて開いてゆくこと、
自分の「経験」を他の人とわかちあうこと。
だから、私は「学校のようなもの」をやっている。

それを忘れないようにしよう。

2008年06月06日

雑感 (1)

最近、初対面の人や、生徒の方と会うと、
妙に下の方を向いていらっしゃる方が
いらっしゃることに気がつきました。


何だろう、と思っていたのですが、
昨日も同じようなことがありました。
その時に、!!!
分かりました。


私の靴を見ていらっしゃったのでした。
靴磨きのことを書いて以来、
私の靴がどのようになっているのか、
気になられるようで、
先日は、はっきりとNo.8仕上げの靴を見てみたい!
とおっしゃる方もいらっしゃいました。


えらいことを書いてしまったなあ、
と思いましたが、
もう後の祭り。
実は、靴磨きマイブームは、
既に峠を越えていて、
今は手当たり次第に磨いたりはしていませんし、
何時間もかけて靴を磨いたりもしていません。
今は、普通よりもちょっとだけ輝いている程度です。
でもよく見ると、何となく深い色をしています。
雨の時には、革靴を履きません。
師匠から、堅く戒められたからです。
雨用の冴えない靴を履いていますので、
雨の時には余り下の方をみないでくださいね。


さてさて、昨日はカナダのヴァンクーヴァーから
ハーネマンアカデミーの通信教育で勉強されていらっしゃる
I さんが日本に一時帰国されたということで、
訪ねていらっしゃいました。
ロアジーナで、ランチを食べられて、
とても楽しくお話ができました。
素敵なご主人とご一緒で、
さまざまなことをお話できて、
とても嬉しいひとときでした。
食事の質には、びっくりされていらっしゃいました。

ロアジーナの食は、本当に素晴らしいです。
美味しい! ヘルシー!・・・本当にものすごくヘルシーです。
元気になる!

昨日は、I さんご夫妻と、
当番で来ていただいている4年生のNさん、
広報担当の3年生のKさん、
また、ちょうど朝の「初めてのホメオパシー」を受講された後、
ロアジーナに行ってみようか、
という立ち話をされていたので同行したお二人と、
ホメオパシーの話や、ヴァンクーヴァーの話、
またホメオパシーの検証実験についての
イギリスBBCの番組の話など、
さまざまな話に花が咲きました。

その時のお話は、近々ホームページでも
ご紹介させていただく予定です。
I さん、有難うございました。

4年生のNさんは、海外の通信生がいらっしゃることを
ご存じなかったようで、びっくりしていらっしゃっいましたが、
実は、海外の通信の生徒は、かなりいらっしゃいます。

通信の方は、最初の2年間だけで、
3,4年の時は、通学だったのですが、
海外の方で、どうしても帰国が難しい方もいらっしゃるので、
通信だけでも卒業できるようにしました。
但し、勉強期間の問題や、その他の条件も
それに合ったように整える予定です。


ブログが始まってから、約2ヶ月が経ちました。
案外といろいろな方が読んでいただいているようで、
コメントをいただいたりして、嬉しいです。

近々、新たにスタッフのブログ、
そして生徒のブログも始まる予定です。
お楽しみに。

2008年06月07日

学校 (2)

以前からよくこういうご質問を受けました。

「ハーネマン・アカデミーの特徴は何ですか?」
「他の学校との違いは何ですか?」

今までそんなことを学校案内やWeb page 
に書こうと思ったことはありませんでした。

学校案内をちゃんと読めば、
ハーネマン・アカデミーが何をしようとしているか、
ということが分かるはずで、
学校案内を読み比べれば、
他の学校とは全く違うことも分かるはず、
と思っていました。

しかし、それは私の勘違いだったように思います。
近々リニューアルする学校案内には、
明確に表現をする予定です。

今から北海道セミナーに出発です。

2008年06月15日

森有正、二宮正之、小林秀雄さんのこと

パリにいたのは82年の春から85年にかけてでした。
パリにいた目的は、何かをするためではなく、
ただフランスにいること。
そこに存在すること、
ただそれだけでした。

森有正に導かれて、
パリに存在するため、
パリで息をするため、
そこで石の硬質の密度に晒されるために
パリに来たのでした。

その前のアメリカでは、
毎日16時間以上、勉強ばかりしていました。
食事時間と睡眠時間以外、
ずっと勉強ばかりでした。
あんなに勉強ばかりしていたのは、
初めてでした。

アメリカでは何かを為すため、doingでしたが、
パリではただそこにいるため、beingでした。

森有正さんは76年に亡くなりましたが、
森有正を最も知る人、
二宮正之先生がパリにはいました。
二宮先生は、森有正全集の中の日記を訳されたり、
「私の中のシャルトル」に、
森さんのことを深い愛情をもって書かれています。
とりわけ、「詩人が言葉をうしなう時」という一文。
これは、本当に素晴らしい一文でした。
もともと森有正全集の中に入っていましたが、
「私の中のシャルトル」に所収されています。


パリに行ってしばらくして、二宮先生に、会いに行きました。
授業に伺って、森有正の話をしたところ、
とても興味を持っていただき、
何度もお会いして、森有正の話を中心として、
語り合いました。

二宮先生を自宅にお招きして、
妻の手料理でもてなし、
深更まで語り合ったのも、良い思い出です。


そのうち、二宮先生の生徒の一人から相談を受けました。
二宮先生から小林秀雄の「当麻」「無情といふ事」「徒然草」
についての宿題が出たが、
余りに難しいので手伝って欲しい、
というのです。

早速一緒に書店に行きました。
どれもたった4ページくらいの、
極めて短い文章です。
書店でぱらぱらと眺めて、
お安いご用、とばかり気軽に引き受けました。
これが、大きな「間違い」でした。


まず「当麻」を一回読んでみました。
しかし、全く分かりません。
何のことやら、全く頭に入ってこないのです。
二回目読みました。
分かりません。
三回読んでも、まったく分かりません。

これが、自分のための単なる読書だったら、
すぐに投げ出していたと思います。
こんなの意味不明だ! と。
しかし、手伝いを気軽に引き受けてしまった後でした。
分かるまで読むしかありません。

こうして、四回、五回、六回・・・・
と読んでいきました。
しかし、何回読んでも理解できません。
たった四ページです。
それが、こんなに何度も何度も読んでも分からない。
自分に絶望しかけました。


二十回くらい読んだとき・・・でしょうか、
ようやく少しだけ「氷」が溶けてきました。
しかし、そこからがまだまだ長い道のりでした。

一文一文が心に染みわたるように分かってきたのは、
ようやく六十回を超えてからでした。

心に染みわたるようになってきてからは、
読む度に、その密度、思考の透徹さに本当に感銘を受けました。
すごい! こんなすごい人が日本にいたんだ!
という思いでした。

「当麻」を読みこなすのは大変でしたが、
一度そこを通過すると、
「無情といふ事」「徒然草」は、
数回読むだけで、染みわたるように分かってきました。
そして、それ以来、
小林秀雄は私の人生にとって本当に大切な人になりました。


5年前に「森羅万象セミナー」と銘打った連続セミナーを、
熊本で行ないました。

その3回目が小林秀雄で、
現在継続的にアップしていますので、
ぜひ読まれてください。

http://nihon-homeopathy.net/archives/seminar/sinrabansyo/index.htm


次回は、難解で名高い「死霊」を書いた埴谷雄高さんのこと、
そして埴谷雄高さんが語った、
小林秀雄についての驚くべきエピソードを
書こうと思います。

2008年06月16日

小林秀雄、杉本春夫、埴谷雄高さんのこと (1)

アメリカ時代から、次第に森有正にハマッていきましたが、
パリに行ってからは、正に24時間、「ズブズブと」森有正に耽溺しました。
全集を、毎日手当たり次第に読みました。
そうするうちに、
自分が森有正なのか、森有正が自分なのか、
分からないような感覚になってきました。

ある日パリの本屋さんで、
「森有正論」という本を見つけ、
さっそく買いました。

著者は、杉本春夫さんという詩人で、
何と住所は山口県岩国市、とありました。
私の実家から近いので、びっくりしました。

さっそく帰郷した時に訪ねました。
とても歓待してくれて、
森有正やさまざまなことをお話しました。

そのうちに、
「君はぜひ埴谷雄高さんに会いなさい。」
と言われました。
私は内心、「えーーー埴谷雄高?」
と思いました。
なぜならば、大学時代にある後輩から、
埴谷雄高さんの著作が素晴らしいよ!
と言われて、代表作という「死霊」を読んでみたところ、
もう全く読めない、とてつもない代物だったからです。

でも、杉本さんは大いに勧めてくれます。
そのうちに、埴谷さんから返事があったとのお電話があり、
約束の日時をセットしてくれました。

夏の暑い日でした。
井の頭公園の近くのご自宅に訪ねて行くと、
埴谷雄高さんは、そこにいました。(当たり前ですが・・・)

埴谷さんは、深い深い深い眼をした人でした。
宇宙開闢から、無限の闇まで見通すような、
神秘的な眼をした方でした。
こんな眼を見たことがありません。

「ギリシャ時代のソクラテス、プラトンはどう思われますか?」
とお聞きしました。
そうすると、ぴっと居ずまいを正して、こう言われました。
「ソクラテスのいたギリシャ時代というのは、
人類の叡智が最高峰に達した時代です。
そこから現在まで、段々低下していく一方です。
私の書いたものなんて、
もうどうしようもないようなものばかりです。」
と言われます。
もうびっくりしてしまいました。

プラトンを読むと、
余りの叡智に圧倒されているばかりで、
埴谷さんの著作についての評価はともかく、
ギリシャ時代について、似たような感覚を抱いていたのですが、
ここまで端的に言われて、
本当に衝撃でした。

そして、「小林秀雄はどう思われますか?」
と尋ねると、
またもや埴谷さんのエネルギーがピッとなりました。

「小林秀雄は、日本人の文学者の中で、
ただ一人だけ富士山のてっぺんまで登った人です。
5合目か6合目までは、
フランス文学やロシア文学の助けを借りて登ったけれども、
そこから先は、独りでてっぺんまで登った人です。」
と言われます。

またしても吃驚してしまいました。
日本の文学者の中で、唯一てっぺんまで登った人、とは・・・・・
そこまで言うか・・・

埴谷雄高さんと小林秀雄とは、一般的なイメージとしては、
全く真反対のような、対極的な存在のように思われています。
埴谷雄高は、元共産党党員で左翼、
小林秀雄は、体制派で右翼的。
というイメージを持っている人も多いようです。

小林秀雄については、あれほど読みましたから、
右翼的とはもちろん思ってはいませんでしたが、
埴谷雄高が、小林秀雄をそこまで高く評価しているとは、
夢にも思いませんでした。

2008年06月20日

小林秀雄、杉本春夫、埴谷雄高さんのこと (2)

埴谷雄高さんは、戦後すぐ昭和二十一年に、
「近代文学」という雑誌を創刊しました。
荒正人・小田切秀雄・佐々木基一・埴谷雄高・平野謙・本多秋五
の五人による同人誌です。

すぐに企画として出てきたのが、小林秀雄との対談です。
小林秀雄は、埴谷さんたちにとって、
どうしても超えていかなければならない大きな壁でした。

戦争を越えて、人間の生き方を根源的に問いなおし、
真の文学、本当の近代の文学を打ち立てていこう、
とする熱い思いの五人だったのです。

対談を申し入れて、小林秀雄から承諾の返事をもらうと、
五人は小林秀雄を徹底的に論破しようと、
連日夜を徹して議論を重ねました。

そして、その日を迎えました。


結果は・・・・・
惨敗・・・・・


五人は小林秀雄に徹底的に、
完膚無きまでに論破されたのです。
その夜、五人はヤケ酒を飲みました。
あんなに予行演習を重ねたのに、
まったく役に立ちませんでした。
しかし、余りにも完全に打ちのめされたので、
妙にさっぱりしたヤケ酒だったそうです。

しかし、それで話は終わりではありませんでした。
その対談の速記録が、小林秀雄に回されて、
手を入れられて返ってきたのです。

速記録は、あらゆる発言に手を入れられて、
大幅に書き換えられていました。
小林秀雄自身の発言だけではなく、
五人全ての発言にも徹底的に手を入れられていました。

最初は「何だこれは!」という反応でした。
「自分の発言を直すのは良いけれど、
他の人間の発言に手を入れるとは、なんたること!
どういうことだ!」
という感じでした。


しかし、手を入れられた自分の発言を読んでみると、
唖然、呆然、愕然としました。

五人の発言はすべて、
「そうだ! 本当は俺はこう言いたかったんだよ。
正に言いたかったことは、これなんだ!」
と思わずうなってしまうように、見事に書き換えられていたのです。

発言した時には必ずしも明らかではない真意が
素晴らしい形で美しく表現をされていました。

そしてその上で、
小林秀雄は完膚無きまでに、
五人を徹底的に論破していたのです。

それを読んだ五人は、正に放心状態。
完全にノックアウトされてしまいました。

しばらくの間はため息ばかり、
全く仕事にならなかったそうです。

それ以来、時を経れば経るほど分かったのは、
「小林秀雄を超える」ということは、
決して出来ない、ということだったと言うのです。


「小林秀雄は超えられないんですよ。
例えばね。バッハを超えられますか?
ベートーベンを超えられますか?
並ぶことはできるかもしれないけれど、
「超える」ということはできないですよ。
小林秀雄も同じです。
あのように富士山のてっぺんまで行った人を
「超える」ということはできないんですよ。
てっぺんというのは超えられないんだから。」


それ以来、埴谷さんの本を読んでみました。

それにしても、そのタイトルからして尋常ではありません。
読み方からして見当もつかないような言葉が並びます。


『鞭と独楽』
『墓銘と影絵』
『罠と拍車』
『垂鉛と弾機』
『甕と蜉蝣』
『振子と坩堝』
『渦動と天秤』
『兜と冥府』
『鐘と遊星』
『石棺と年輪』
『蓮と海嘯』
『暈と極冠』
『雁と胡椒』
『虹と睡蓮』
『螺旋と蒼穹』
『濠渠(ほりわり)と風車』

どうですか?

タイトルにも驚きましたが、
読んでみるともっと驚きました。

評論の文章が
透明感と陰影がある、
素晴らしく流麗な文章だったことです。

「死霊」は、ごつごつした、
とても抵抗感のある文章でした。
(もちろん内容をありのまま表現するために
意図的に創り出した文体なのですが)

同じ作家とはとうてい思えないような、流麗な文章でした。

思い直して「死霊」にも再挑戦してみましたが、
残念ながら「死霊」は相変わらず読めませんでした。


死霊をとりまくキーワードは、とっても面白いです。

風癲病院
自同律の不快
虚体
無限宇宙の果て
自己完結した世界で生きる「愁いの王」
数億光年の無限からやってきた夢魔
無出現の思索者
「存在宇宙」とその負の世界の「亡霊宇宙」
人類滅亡のときの最後の人間の話
存在の創造の秘密
死者の電話箱を使い、死の隣の世界である分解の王国と交信した医師

などなど。

えっなんだろう!!!
どきどきします。 ドキドキ


読めなかったのは、
もう二十年以上前のことなので、
今は読めるかもしれません。

ぜひまた挑戦してみたいと思います。

2008年06月25日

後藤修さんのこと (1)

もし、私が実際にお会いした人の中で、
最大級の天才といえば、
迷わず、後藤修さんを挙げることになるでしょう。

後藤修さんを初めて知ったのは、
1976年くらいだったでしょうか。
あるゴルフ雑誌の記事でした。

「ジプシー後藤」というペンネームで、
毎週、全国の飛ばし屋(ゴルファーで、ボールを遠くに飛ばせる人)
に挑戦する、という趣向でした。
経歴は、元プロ野球選手。
ジプシー後藤という名前は、プロ野球選手時代に、
松竹ロピンズ、東映、大映、巨人、近鉄、南海、西鉄と
12年間に7球団を渡り歩いたため、
ジプシー後藤と呼ばれることになったそうです。

飛ばし屋に挑戦し、ほぼ全勝しながら、
飛ばし屋たちのスイングを評論していました。
その文章が軽妙洒脱なことが印象的だったのと、
もう一つとても目を引いた、気になることがありました。

プロフィールの中に、ジャンボ尾崎の師匠
と書いてあったのです。
ジャンボ尾崎は日本を代表する
日本一のプロです。
1971年の初優勝から2002年に55歳で優勝するなど、
30年以上にわたって日本のゴルフ界に君臨してきた
日本プロゴルフ界、最大のスターです。
横柄とも言えるくらいの独特の言動があり、
極めてプライドが高いというか、
狷介孤高です。
修業時代はともかく、
誰かに教えを受けているなどとは
聞いたこともありません。


そのジャンボ尾崎の師匠?
後藤修さんは、元プロ野球選手とはいえ、
無名に近い二流選手でしたし、
ゴルフに関しては、何の戦績もなく、
プロゴルファーですらありません。

日本一のプロゴルファーが、プロゴルファーですらない男の弟子?
そんなことがあり得るの?
でも、代表的なゴルフ雑誌にまぎれもなくそう書いてある。
その連載も結局2年以上続きましたから、
ジャンボ尾崎の目にも触れているでしょうし・・・
それでも続いていると言うことは、
やっぱり本当なのか?

でもそれにしても不思議・・・
プロゴルファーですらない人が、
日本一のプロゴルファーの先生?

何だかとても不思議な思いを持っていました。


ジャンボは71年から80年まで、
1位5回、2位2回、3位2回と抜群の成績で、
日本プロゴルフ界興隆の立役者、
その後台頭してきた青木功、中島常幸と共に、
AON時代を築きました

1971賞金ランキング 1位 18,120,000円  24歳
1972賞金ランキング 1位 29,280,000円  
1973賞金ランキング 1位  43,814,000円
1974賞金ランキング 1位  41,846,908円
1975賞金ランキング 2位   27,658,148円
1976賞金ランキング 3位  24,608,872円  29歳
1977賞金ランキング 1位   35,932,608円
1978賞金ランキング 2位   29,017,286円
1979賞金ランキング 8位   20,134,693円
1980賞金ランキング 3位  35,415,876円  33歳


しかし、81年くらいから84年まで、
ジャンボ尾崎は絶不調に陥りました。
賞金ランキングも急降下。

1981賞金ランキング 28位  9,722,902円  34歳
1982賞金ランキング 16位 16,699,314円
1983賞金ランキング 6位  31,129,261円
1984賞金ランキング 19位 19,541,606円  37歳

他のスポーツと違い、
ゴルフの場合は単なる体力勝負ではありませんので、
34歳から37歳という時期は、
本来最も油がのりきった最盛期であって、
衰える時期ではありません。

しかし、81年からは新たに台頭した
倉本昌弘の台頭や、青木功、中島常幸の大活躍の陰に隠れて、
ジャンボ尾崎は全く陰を潜めました。
時々思い出したように一勝するのですが、
もう半ば忘れ去られた存在になっていたのです。

つづく

2008年06月26日

後藤修さんのこと (2)

そのゴルフ雑誌でも、がんばれOzaki くんという
漫画が連載されました。
お腹が出っ張ったOzaki くんが
駄目男として描かれていました。
こんなボクでも昔は有名だったんだよ、
と言っても、誰もえーーー知らなかった!、
と揶揄する感じで連載されていました。

ジャンボ尾崎は完全に「過去の人」でした。


その時でした。
85年の夏頃、
シーズンが半ばに入った時、
突然その雑誌に後藤修さんによる、
「ジャンボ尾崎、大復活宣言」
という宣言文が、
見開き2ページにわたって掲載されたのです。

そこにはそんなことを宣言して、本当に大丈夫?! 
ということが
ふんだんに書かれてありました。


「私は不言実行ではなく、常に有言実行である。」
「ジャンボが復活しなかったら、私のクビを差し上げよう。」

そして、「私の予言は、天体の運行のように必ず成就する。」
という言葉で締めくくられていました。

「私の予言は、天体の運行のように必ず成就する。」
なんとすごい表現でしょうか。
大きな衝撃を受けました。

それからジャンボ復活の連載が始まりました。
宣言には、ジャンボのスイングを一度完全にバラバラにするので、
85年の成績はすぐには上がらない、
しかし、後半から徐々には上向いているので、
賞金ランキングはそれなりには上がるであろう。

しかし、冬の間に大きく脱皮し始める。
大復活は3年でいったん完成するが、
1年以内、つまり86年6月までには必ず一勝し、
1年後の86年末には、ひょっとすると賞金王になるか、
ならなくても必ず賞金王に肉薄する、
とありました。
そして、その後は日本のプロゴルフ界に
長く君臨するであろう、という
現実離れしたような文が並んでいました。


ゴルフ界では、ほとんど誰も信じていませんでした。
ジャンボは過去の人であることは明らかでしたし、
スイングは明らかに変化したのですが、
その新スイングは、非常に奇妙に見えるものだったからです。

流麗で美しい、流れるようなスイングではなく、
なんだか角張った、突っ張ったようなスイングでしたし、
TV中継や雑誌でも、新スイングを揶揄するような内容ばかりでした。
プルゴルファーですらないインチキ野郎が、
オオボラ吹いて、ジャンボが振り回されている、
もう藁をもつかむような思いなのだろうけれど、
かわいそうに。
これでジャンボも本当にお終いだ、
という論調でした。

しかし、その後、次第に成績は向上し、
予言通り、85年は終わってみれば9位に浮上しました。

1985賞金ランキング 9位   33,389,931円


そして、翌年の86年5月、
まだ1年にもならないうちに、
予言通り1勝。

そしてその年はそのまま4勝して、
2位になり、見事に復活。
賞金王こそ穫れませんでしたが、
確かに賞金王に肉薄したのでした。

そして、そこから怒濤のようにジャンボは快進撃を重ねました。


1986賞金ランキング 2位   80,356,632円  39歳
1987賞金ランキング 2位  76,981,199円
1988賞金ランキング 1位 125,162,540円
1989賞金ランキング 1位 108,715,733円
1990賞金ランキング 1位 129,060,500円
1991賞金ランキング 4位 99,060,539円  44歳
1992賞金ランキング 1位 186,816,466円
1993賞金ランキング 2位 144,597,000円
1994賞金ランキング 1位 215,468,000円
1995賞金ランキング 1位 192,319,800円
1996賞金ランキング 1位 209,646,746円  49歳
1997賞金ランキング 1位 170,847,633円
1998賞金ランキング 1位 179,627,400円 51歳
1999賞金ランキング 6位 83,517,969円
2000賞金ランキング 7位 88,940,087円  
2002賞金ランキング 11位 67,821,342円  55歳
2003賞金ランキング 15位  50,460,916円
2004賞金ランキング 55位 19,833,670円
2005賞金ランキング 82位 10,225,504円  59歳

何と51歳なるまで賞金王の座をほぼ独占し、
55歳でも優勝!
59歳でもツアーで実力でシード権を獲得したのです。

前人未踏の113勝。
正に、「予言は天体の運行のように成就」したのでした。

つづく

2008年06月27日

後藤修さんのこと (3)

後藤修さんに初めてお会いしたのは、
94年でした。
その頃、家業の鉄鋼の仕事を辞めて、
作家になろうと思っていました。

その時に、「天才シリーズ」のようなものをやろうと思い、
最初に書こうと思ったのが、
後藤修さんのことでした。

104で電話番号を調べて、
電話してみました。

昔から後藤修さんに関心があり、
ぜひ本にしたい、と伝え、
しばらくの間、密着取材したい、と言いました。

後藤修さんは、深く力のある声ではありましたが、
思いの外、優しい声で、
世田谷区の芦花公園の近くの練習場に毎日いるから、
来るように、ということでした。

私が行ったのは、あいにく練習が終わりかける頃で、
1時間ほど練習を拝見した後、
後藤さんのご自宅でお話をお伺いしました。


最初に、以前からずっと気になっていた質問をしました。
実は、私はゴルフをかなり教えた経験がありました。

私が教える時は基本的にスイングの正面から見ていたのですが、
後藤さんは、飛球線後方からのみ見ていたからです。
以前読んだ雑誌にもそう書いてありましたし、
たった1時間ですが、
練習中も正面には回らず、
常に飛球線後方からのみ見ていました。


「後藤さんは、スイングを正面からではなく、
ほとんど飛球線後方から見ていますが、
なぜなのでしょうか?」

その答えはこのようなものでした。


「私は天文学者から、こういう話を聞いた。
流れ星が落ちるとき、
自分に向かって落ちてくるとしよう。
その時、自分に対して完全には真っ直ぐではなく、
自分から少しでもそれて落ちてくると、
真横に落ちるように見える、と。

だから、私は飛球線後方から常に見ている。
スイングやボールの打ち出しが、
少しでも飛球線に対してずれていると、
瞬時に分かる。

私はもともと超一流プロしか教えない。
まあ、今はちょっと違うがね・・・

超一流プロの場合、
スランプの始まりは、
本当に微妙なずれから始まる。

飛球線後方から見ると、
その本当に微妙なずれでもすぐに分かるんだ。
ただし、私のような『芸術的な眼』を必要とするがね。


それにしても天文学から始まるとは・・・

最初からノックアウトされてしまいました。


つづく

About 2008年06月

2008年06月にブログ「永松学長のひとりごと」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2008年05月です。

次のアーカイブは2008年07月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34